| 武将名 |
よみ |
生〜没 |
解 説 |
織田信長
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おだ
のぶなが
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1534
〜
1582 |
尾張那古屋城主織田信秀の子。幼名吉法師。18歳のとき信秀が病死し、家督を継ぎ上総介と自称した。少年時代異風を好んで「大うつけ者」の評判をとった。(信秀の葬儀の時、袴もつけず仏前に出て焼香を投げつけた話は有名)尾張の反対勢力を一掃し、本拠を清洲城に移した。西上の途についた今川義元を桶狭間に奇襲して倒し、一躍武名を上げた。今川氏の支配から脱した徳川家康と盟約を結んで東方背後を固めると西方進出を開始。居城を小牧山に進め美濃攻略に力を注ぎ斎藤龍興を井ノ口城に攻めて降した。この地を岐阜と改め本拠を移す。「天下布武」の朱印も岐阜へ移った頃から使いはじめた。足利義昭から室町幕府再興の依頼を受け更に西上、近江の六角義賢らを奔らせて入京を果たし、義昭を15代将軍につけて幕府を再興した。信長に権限を制約された義昭は反信長戦線を策謀する。しかし姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を大敗させ、三好党を打ち、比叡山を焼き討ちして、義昭を追放。武田勝頼を長篠の戦で鉄砲隊により致命的な打撃を与え幕府を倒した。信長は近江安土に築城して嫡男信忠に家督を譲った。これは家政を信忠にみさせ、信長は天下の政を見るということである。上杉謙信が死去して北の脅威も去り、本願寺も降伏、畿内は平定された甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国筋の経略にあたっていた羽柴秀吉は毛利軍との決戦を控えて援軍を信長に乞うた。しかし、秀吉応援のために安土を出発し、京都・本能寺に宿泊したが、明智光秀の襲撃を受けて自刃した。
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| 織田信孝 |
おだ
のぶたか |
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【生没】永禄元年(1558)〜天正11年(1583)
信孝は織田信長の三男で、神戸具盛の養子となりました。
本能寺の変の時は秀吉とともに明智光秀を討ちますが、その後対立して岐阜城で挙兵、
兄の信雄の攻撃にあい、尾張の野間大御堂寺で自刃します。享年26歳でした。
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| 織田長益 |
おだ
ながます |
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【生没】天文16(1547)〜元和7年(1621)
織田長益(有楽斉如庵)武将・茶人。信長の弟で、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え
関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って戦後大和三万石の大名となりました。
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豊臣秀吉
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とよとみ
ひでよし |
1536
〜
1598 |
秀吉の素性は今もって明らかではない。父の素性は織田信秀の鉄砲足軽であったがいくさで受けた傷がもとで五体不自由となり尾張中村で百姓になったという説があるが、この時期はまだ種子島にも鉄砲は伝わっていない。織田信長に使え草履とり(懐で草履を温める話は有名)、墨俣で一夜にして城を築き、信長軍が若狭から撤退する際命がけの殿(しんがり)軍をつとめるなど大出世する。備中高松城を攻めている最中に伝えられた本能寺の変を聞いて毛利軍と休戦し、中国大返しを行って山崎の合戦で明智光秀を打つ。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打ち、信長の跡継ぎの地歩を固めた秀吉は大阪城の築城を開始した。徳川家康には小牧・長久手の戦いで苦戦を強いられたが、姻戚関係を結んで臣下とする。内大臣から関白に進み聚楽第も造営。北野大茶会を催し、麦焦がし一つかみあれば誰でも参加せよとの太っ腹なところを見せて人気を集めた。関白を秀次に譲って自らは太閤を称した。朝鮮出兵を強行。淀殿に秀頼が誕生すると秀次一族は処刑された。伏見城を築城し行政の中心を伏見へ移し、やがて病没する。
【生没】天文5年(1536)〜慶長3年(1598)
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| 豊臣秀長 |
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【生没】天文9(1540)〜天正19年(1591) |
徳川家康
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とくがわ
いえやす |
1542
〜
1616 |
【生没】天文11年(1542)〜元和2年(1616)
三河岡崎城主松平広忠の嫡子。6歳のとき今川義元に人質として出されるが途中で織田氏に奪われ3年間監護され、その後また今川氏の人質となり19歳まで駿府で過ごす。桶狭間の戦いで今川義元が亡くなると自立し嫡男信康と織田信長の長女五徳の婚姻成立により織田氏と同盟を結ぶ。今川氏の領分を蚕食し、三河一国を平定した頃旧姓の徳川氏」に復した。三方ヶ原で武田信玄と戦って大敗するが、織田信長と協力して長篠の戦では信玄の子勝頼に勝利。本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉と「小牧・長久手の戦い」で戦う。和睦後は二男秀康を秀吉の養子にする。秀吉は妹朝日姫を家康の正室に送り、母も岡崎へ送って上洛を即すに及び家康は秀吉に臣事。小田原征伐(対北条氏)では先鋒となって働き関八州250万石に封ぜられ江戸に入城した。秀吉没後は五大老の筆頭として権勢を振るい、関ヶ原の合戦において石田三成をやぶり天下の実権を収め、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた。将軍職を秀忠に譲った後も大御所として実権を握り大阪夏の陣に豊臣秀頼を滅ぼした。後病没。(日光東照宮に「東照大権現」として葬られている)
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| 本多忠勝 |
ほんだ
ただかつ |
1548
〜
1610 |
三河出身。幼名平八郎。本多忠政の子。徳川家康にしたがって尾張大高城に入る。遠江一言坂の合戦で奮闘し敵の武田軍から「家康に過ぎたるものが二つある。唐の頭に本多平八」と称賛された。「唐の頭」とは唐牛の尾毛で飾った兜のことで高価な舶来品であった。三方ヶ原、長篠、小田原合戦にも参陣。家康関東入国のとき、上総大多喜10万石を領し、その後伊勢桑名10万石に移封。徳川四天王の一人と称された。忠勝は生涯に50余度の合戦に出たがついに一度も負傷しなかったといわれている。
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| 福島正則 |
ふくしま
まさのり |
1562
〜
1624 |
尾張出身。信正の子。通称市松。幼児より秀吉に仕えて鳥取城攻め、山崎の合戦など各地を転戦。賤ヶ岳の戦いでは殊勲をたてて七本槍筆頭の高名をあげ近江、河内で5千石の恩賞を得た。雑賀攻めの時の軍功で伊予湯月11万余石に封じられ、文禄の役では尾張清洲24万石を領す。関ヶ原の戦いでは石田三成と対立し、東軍の先鋒として働き、安芸、備後二州49万8千石、広島城主となる。しかし豊臣恩顧の将であったので徳川に敬遠され大阪冬の陣には江戸留守居を命じられた。広島城の無断修築をとがめられ信州川中島4万5千石に減封、蟄居した。病没。
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| 黒田長政 |
くろだ
ながまさ |
1568
〜
1623 |
黒田官兵衛孝高(如水)の子として姫路に生まれる。幼名松寿。初陣は13歳で父孝高に従った備中高松城攻めである。家督を継ぎ豊前中津城主となり12万石を領した。秀吉没後は家康に従い、関ヶ原の戦いの功によって筑前52万石の大守となった。
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| 黒田孝高 |
くろだ
よしたか |
1546
〜
1604 |
【生没】天文15年(1546)〜慶長9年(1604)
黒田孝高は姫路に生まれ、祖父重隆が播磨の守護赤松氏の一族・小寺氏の養子と
なったため、はじめは小寺氏を称しました。職高の代より織田信長の傘下に属して
中国征伐の羽柴秀吉に協力。天正6年に荒木村重が信長に叛いた時は説得に
向かいますが、そのまま幽閉されてしまいます。この間に足を悪くしたといわれています。
山崎の合戦、四国征伐にも参戦し秀吉の参謀として手腕を発揮し、九州征伐では
豊前に12万石を与えられ中津川を居城としました。慶長9年山城伏見
(一説に筑前国博多)で死去。(剃髪した時の号「如水」や黒田官兵衛といった方が
有名かもしれません。)
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| 藤堂高虎 |
とうどう
たかとら |
1556
〜
1630 |
近江出身。はじめ浅井長政の臣。やがて織田(津田)信澄、羽柴秀長に仕えた。賤ヶ岳、九州征伐へも参陣。秀長が没すると猶子秀俊に仕える。文禄の役には水軍を指揮したが連敗。秀俊の死に遭い、敗北の恥と主君の死を嘆いて高野山に入る。しかし秀吉の召還に応じ伊予板島7万石を与えられる。関ヶ原の合戦には東軍に属し、伊予半国20万石。その後伊賀一国と伊勢安濃津(あのつ)22万余石に転封。大阪夏の陣では長宗我部盛親と交戦。大阪城落城後、大和の一部と下総香取32万3千余石の大藩主となった。 【生没】弘治元年(1556)〜寛永7年(1630)
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| 井伊直政 |
いい
なおまさ |
1560
〜
1602 |
【生没】永禄4(1561)〜慶長7年(1602)
幼名万千代。父直親が謀反容疑で今川氏真に殺され所領を奪われたため、親族に養われ放浪する。家康に見い出され武田遺臣を付属され、その赤備えを継承し、「井伊の赤備」と称されて天下に名をとどろかせる。家康関東入国の時、上野箕輪城12万石を与えられる。関ヶ原の戦いでは薩摩兵を追撃中狙撃を受けて右腕関節を負傷し右腕は役に立たなくなった。近江佐和山城主となり18万石に加増された。
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| 細川忠興 |
ほそかわ
ただおき |
1563
〜
1645 |
【生没】永禄6年(1563)〜正保2年(1645)
肥後熊本藩主。細川幽斎の子。通称は与一郎。父とともに織田信長に仕え、紀伊雑賀一揆討伐が初陣。丹後12万余石を領す。本能寺の変の時には夫人ガラシャが明智光秀の娘であったことから光秀への協力が予想されたが秀吉につく。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、豊前39万9千石に移封。はじめは中津城を居城としていたが小倉に城を移す。大阪夏の陣では世子忠利とともに参戦、軍功をあげた。忠利に家督を譲り、肥後熊本に移るに伴い、忠興は支城の八代に住んだ。晩年は三斎と号して茶の湯などを楽しむ。
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| 細川勝元 |
ほそかわ
かつもと |
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【生没】永享2年(1430)〜文明5年(1473)
勝元は室町幕府官僚。摂津・丹波・讃岐・阿波の守護。はじめ山名宗全(持豊)と結び、
畠山氏に対抗していましたが、足利将軍家や畠山氏、斯波氏の継嗣争いに関与し、
宗全と対立するようになり、応仁の乱に発展。東軍の総大将として戦いますが勝敗が
決まらないまま西軍総大将であった宗全が病死。勝元もそのわずか2ヵ月後に
病没してしまいました。 |
| 加藤嘉明 |
かとう
よしあき |
1563
〜
1631 |
三河出身。朝明の子。一向一揆に加わって徳川家康と戦い敗北。近江に逃げ15歳のころ当時長浜城主だった羽柴秀吉に仕え、子飼いとして養育される。賤ヶ岳では七本槍に称されるほどに軍功をあげた。秀吉が関白になった頃、淡路の三原・津名で1万5千石を領し志智城主となる。志智は淡路水軍の根拠地であるためこの頃から水軍と深くかかわるようになった。小田原征伐、朝鮮出兵時も水軍として参戦し伊予正木城主6万石に栄転した。関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊予20万石に加増。松山城の築城を許可された。松山藩の発祥である。その後会津若松40万石を領し69歳で没した。
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| 池田恒興 |
いけだつねおき |
1536
〜
1584 |
織田信長と乳兄弟(恒興の母は信長の乳母)。荒木村重の謀反の際、功があり村重の
旧領を賜る。本能寺の変後は秀吉とともに光秀を討ち、清洲会議では秀吉、柴田勝家
丹羽長秀とともに四宿老に列しました。小牧・長久手の戦いで戦死。
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| 池田輝政 |
いけだ
てるまさ |
1564
〜
1613 |
恒興の二男
織田・豊臣・徳川に仕え、播磨・備前・淡路三国を領して世に「姫路宰相」と称された。小牧・長久手の戦いで父と兄が討ち死にしたので、美濃10万石を受け継ぎ大垣城主となった。また小田原、奥州征伐の戦功により三河吉田城15万石に移封された。関ヶ原の戦いでは東軍に属し播磨52万石を与えられて姫路城主となった。現在見られる美しい姫路城は彼の代に築かれた城である。
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| 浅野幸長 |
あさの
よしなが |
1578
〜
1613 |
安芸広島藩主浅野家の祖。幼名は長満。浅野長政の子として近江の坂本で生まれた。幼い頃から豊臣秀吉に仕え、小田原征伐では父の兵士3千余騎を率いて大手口で奮戦した。朝鮮出兵では甲斐の国が長政と幸長に与えられた。そのうち幸長の領地分は16万石だったといわれる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、紀伊37万6千5百石を領すが38歳の若さで没。幸長には嗣子がいなかったので弟の長晟が相続した。(長晟は家康の娘の振姫を妻にむかえ広島に移されえて42万6千石を領知することになる。) |
| 石田三成 |
いしだ
みつなり |
1560
〜
1600 |
秀吉が近江の野原で鷹狩をした時、喉の渇きを覚えてとある寺に立ち寄り茶を所望したところ14,5歳の小僧が大きな茶碗にぬるめのお茶を8分目程入れて持ってきた。一気に飲み干してもう一杯というと今度は茶碗に半分ほど少し熱いお茶を入れてきた。面白い小僧だと思い更にもう一杯もとめると今度は小さい茶碗に少量充分に熱いのを出してきた。機転に感心した秀吉はこの少年を連れて帰って腹心の部下として重用するのである。これが三成が秀吉に仕えたきっかけと伝わっている。武功がなかったわけではないが、文官的才能にたけ5奉行となる。関ヶ原の戦いにおいて西軍の総指揮官となるが、人徳の無さも起因して大敗。洛中を引き回された後、六条河原で処刑された。
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ 蒔絵シール |
| 島 左近 |
しま
さこん |
?
〜
1600 |
名は勝猛。はじめ大和の筒井家、ついで豊臣秀長とその嗣子秀保に仕えたが、秀保死後近江水口城主石田三成に1万5千石の高禄で抱えられた。当時、三成はわずか4万石であったからその半ばをさいて与えたわけである。そのくらい島左近の名は高かった。関ヶ原の戦いでは三成(西軍)の先鋒となり、最後まで勇敢に戦って討ち死にした。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と称された。
商品ページ ミニのぼり旗 |
| 宇喜多秀家 |
うきた
ひでいえ |
1572
〜
1655 |
【生没】元亀3年(1572)〜明暦元年(1655)
直家の子。幼名八郎。妻は前田利家の娘。岡山城の父が城中に没すると弱冠10歳で家督を継ぎ、秀吉の備中高松城攻めの功で備中東半と備前・美作50万石を与えられた。九州平定、朝鮮出兵にも参陣。五大老となってゆく。秀吉没後あたりから宇喜多家内部に対立が生じ、多くの譜代の老臣を失う。関ヶ原の戦いでは西軍に参加したが大敗に終わり、島津義弘を頼って薩摩に赴き3年間蟄居した。死罪は免れ八丈島遠島に処せられた。配流生活50年。84歳で没。
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| 大谷吉継 |
おおたに
よしつぐ |
1559
〜
1600 |
【生没】永禄2年(1559)〜慶長5年(1600)
父は豊後の大名大友宗麟の家臣大谷盛治と伝える。娘の一人は真田幸村の妻に迎えられた。秀吉の小姓となり、その一字をもらって吉継と改めた。石田三成とも仲がよく、秀吉は「百万の軍の軍配をあずけてみたい」といって吉継の能力をほめたという。越前敦賀城5万石を領し、九州平定、小田原征伐、朝鮮出兵に出陣したが主たる任務は奉行であった。関ヶ原の戦いでは病身にもかかわらず陣頭指揮をとって奮戦したが、小早川秀秋の裏切りにより敗戦が必到となり乱戦のうちに自害をとげた。
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| 島津忠良 |
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【生没】明応元年(1492)〜永禄11年(1568)
入道して「日新斎」と号し、こちらの方が有名かもしれません。
儒教思想にもとづいた「いろは歌」で家臣団の育成をはかり、後の薩摩藩の士風にも
大きな影響を残しました。合戦後には六地蔵塔を建立し、敵味方の別なく戦没者を
厚く供養し博愛慈悲の心の持ち主でもありました。 |
| 島津貴久 |
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【生没】永正11年(1514)〜元亀2年(1571)忠良の子。 |
| 島津義久 |
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【生没】天文2年(1533)〜慶長16年(1611) 島津義久は島津氏第16代当主。 |
| 島津義弘 |
しまづ
よしひろ |
1535
〜
1619 |
【生没】天文4年(1535)〜元和5年(1619)
島津氏は大友・少弐氏とともに九州三名家の一つに数えられ、平安末期より近世まで連綿と700年にも及んだ数少ない守護大名であった。義弘はその18代目にあたり貴久の二男として薩摩の伊作城に生まれた。「薩摩に馬鹿殿なし」と称えられたように、義久・義弘・歳久・家久の4兄弟はいずれも優れた武将だった。兄義久から家督を譲られると肥後八代城主となる。九州制圧を目前に秀吉の九州進出でその野望も消え去った。関ヶ原の戦いでは心ならずも西軍となり、戦史に残る敵中突破の大脱走を敢行して本領安堵を勝ち取る。義弘は子の忠恒に家督を譲って恭順の意をしめした。次に義弘は琉球平定を実現させた。
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| 島津家久 |
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【生没】天正6(1578)〜寛永15年(1638)
義弘の第三子。薩摩藩初代藩主。(義弘の弟とは別人) |
| 小早川秀秋 |
こばやかわ
ひであき |
1582
〜
1602 |
豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の兄、木下家定の子として生まれた。幼名辰之助。通称金吾中納言。秀吉の養子となり羽柴秀俊と名乗って丹波亀山に10万石を与えられたが小早川隆景の養子となり33万石を領す見となった。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが途中味方を裏切り、徳川家康の勝利の因となった。その功により備後・備中・美作50万石の大守となったがわずが2年足らずで早世。21歳の生涯だった。
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| 小西行長 |
こにし
ゆきなが |
?
〜
1600 |
隆佐の二男として堺に生まれた。父の出身も明らかでないが、堺の宿老で薬種商、貿易商であった。宇喜多氏に仕えたが、豊臣秀吉の目にとまり、播磨の室津や小豆島を与えられ水軍を率いて数々の殊勲をたてた。九州平定後、加藤清正と肥後を分け合い、宇土の城周りで14万石を領した。キリシタン大名で洗礼名はアグスチノと称した。関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗れ、京都六条河原で斬首となった。
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| 脇坂安治 |
わきさか
やすはる |
1554
〜
1626 |
近江出身。はじめは明智光秀の肺かであったが秀吉に認められて秀吉配下となる。賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の一人として称された。大和高取で2万石、淡路洲本で3万石と加増される。小田原征伐の時から水軍の将を務めるようになる。関ヶ原の戦いでは西軍に属したが小早川秀秋と共に西軍を裏切り、東軍を勝利へ導いた。その後伊予大洲5万3千5百石に加増された。嫡子安元に家督を譲り京都に閑居後没。
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| 毛利秀元 |
もうり
ひでもと |
1579
〜1650 |
毛利元就四男・穂井田元清の次男。主家毛利輝元の養子となる。朝鮮出兵には輝元に代わって毛利の総大将として出陣。軍功をたてた。輝元に実子秀就が生まれると別家をたてた。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、毛利氏は防長2国に削封されたが、秀元は長門のうちで3万6千2百石を給与された。 毛利元就へ |
| 長宗我部盛親 |
ちょうそかべ
もりちか |
1575
〜
1615 |
長宗我部元親の4男。幼名千熊丸。はじめ土佐の豪族吉良家を継いでいたが長男の信親が戦死したため元親はかわいがっていた千熊丸に信親の娘を妻に与え家督を継がせた。土佐22万二千石。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、途中戦線離脱して土佐の浦戸城に帰ってしまう。所領没収され盛親は浪人となる。大阪冬の陣の際は豊臣秀頼に味方し京都六条河原で斬罪となる。41歳。
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| 長宗我部元親 |
ちょうそかべ
もとちか |
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【生没】天文8年(1539)〜慶長4年(1599)
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| 武田信虎 |
たけだ
のぶとら |
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【生没】明応3(1494)〜天正2年(1574)
武田信虎は甲斐の守護。領国をほぼ統一し周辺の今川氏親や北条氏綱と対戦します。
天文10年(1541)に、嫡子晴信(信玄)とも対立して今川義元のところへ追放され
各地を流浪したのち信濃で病没しました。 |
武田信玄
 |
たけだ
しんげん |
1521
〜
1573 |
【生没】大永元年(1521)〜天正元年(1573)
信虎の嫡男。武田家19代。幼名太郎。元服して晴信となり、入道して信玄となる。父を駿河の今川義元のもとへ追放して甲斐守護となる。まず諏訪頼重を滅ぼし信濃経略の第1歩を踏み出した。伊那、佐久方面へも進出。戸石城攻めや上田原の合戦ではいずれも村上義清軍と対戦し苦戦を強いられる場面も合った。信濃制圧は北信濃を手に入れるため上杉謙信と5回にわたる川中島の戦いが繰り返された。その間には北条・今川と強固な甲駿相同盟を結ぶ。今川義元が桶狭間で亡くなると駿河方面への侵略を企てた。が、義元の娘を娶っている嫡男義信との不和が深刻化し義信は幽死。その妻は今川へ送り返された。今川氏真を追って駿府を占領し西上の途につく。二俣城攻略や三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に圧勝。三河に入り野田城を陥落させたが陣中で発病し、むなしく病没した。三年間喪を秘し、菩提寺の恵林寺に葬られた。
商品ページ 武田信玄の部屋 武田24将軍特集ページ |
| 武田勝頼 |
たけだ
かつより |
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【生没】天文15年(1546)〜天正10年(1582)
武田勝頼は天正元年に父、信玄が病死すると武田家を継ぎました。
しかし跡目相続はスムーズではなく、旧勢力と新勢力の間に争いもおきます。
そんな状況下、長篠の合戦で多数の将兵を失い領国維持が困難となります。
上杉謙信没後の越後上杉氏の家督争いで景勝を支持した為、北條氏政とも対立し、
東西を強敵に囲まれました。甲府の躑躅が崎館を捨て、韮崎に新府城を築きますが、
完成前に木曽氏が謀反を起こし、親族の穴山信君にも反逆され、両者の手引きで
織田・徳川軍が甲斐に攻め入り、ついに天目山下の田野で一族ともに自害しました。
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上杉謙信
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うえすぎ
けんしん |
1530
〜
1578 |
【生没】享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
越後守護。幼名虎千代。長尾為景の子。19歳の時兄春景から家督を譲られ春日山城主となった。関東管領上杉憲政は小田原の北条氏康に追われ謙信を頼った。その依頼によりはじめて関東に出陣。平井城を回復し関東における前進基地とした。同じ頃、武田信玄の川中島進出に対して出兵。村上義清、小笠原長時、北信諸豪族の依頼と自衛のためである。信玄と一時休戦した謙信は上洛。このとき関東管領となり上杉を名のる。厩橋(うまやばし・前橋)城に入り、小田原城の北条を責めるが城の守りが堅く謙信は兵を退いた。川中島の合戦が再開され信玄と一騎打ちという場面もあったが勝負はつかなかった。織田信長との同盟をたって能登七尾城を攻略し末森城をもほふり加賀の中央部へ進出した。手取川では信長軍に大勝利したが、翌年脳溢血のため急逝した。生涯妻を娶らなかったので子は無く、甥の景勝が後を継いだ。
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| 毛利元就 |
もうり
もとなり |
1497
〜
1571 |
【生没】明応6年(1497)〜元亀2年(1571)
安芸郡山城主毛利弘元の二男。早くに父母に死別して継母のもとで苦労して育った。20歳の時兄の興元が病没したので2歳の幸松丸を補佐し、有田城合戦や鏡山城攻撃に出陣して武功をたてた。しかし幸松丸も9歳で夭折したので27歳の時毛利の家督を継ぎ郡山城に入った。大内・尼子の二大勢力にはさまれ滅亡の危機にさらされていたが大内氏に帰属し、尼子晴久が郡山城に来攻してきた時も大内氏の援軍を得て反撃、敗走せしめた。二男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川へ養子に入れ、安芸国内に大きく勢力を広げることが出来た。大内義隆をしりぞけ防長2国を掌握していた陶晴賢を厳島にせん滅させ防長2国を収めた。一転して石見に向かい、国人を起伏させるともに尼子遠征を敢行する。途中嫡男隆元が不慮の死を遂げたが嫡孫幸鶴丸(輝元)をもりたてついに尼子氏の富田城を攻略。中国地方随一の戦国大名に飛躍した。ついで宿敵大友宗麟と北九州で戦闘を再開したが体調を崩し、郡山城で75年の生涯を終えた。
毛利秀元へ
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ 蒔絵シール |
| 毛利隆元 |
もうり
たかもと |
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【生没】大永3(1523)〜永禄6年(1563)
隆元は毛利元就の長男。家督を継ぎ父と共に中国経略に従い、備中・長門・周防の
守護となりますが、尼子征伐の途中、41歳で急死しました。 |
| 毛利輝元 |
もうり
てるもと |
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【生没】天文22年(1553)〜寛永2年(1625)
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ 蒔絵シール |
| 毛利秀元 |
もうり
ひでもと |
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【生没】天正7年(1579)〜慶安3年(1650) |
| 北条氏康 |
ほうじょう
うじやす |
1551
〜
1571 |
【生没】永正12年(1515)〜元亀2年(1571)
後北条氏5代、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直とつづく三代目。二代氏綱の子。伊豆、相模、武蔵で検地を実施。安房里見氏や駿河今川氏、太田資正、上杉憲政・朝定らと戦いほぼ武蔵を制圧し、上野へも進出。子氏政に武田信玄の娘をもらい、自分の娘は今川氏真に嫁がせ、甲相駿三国同盟を結んだ。結城政勝を支援して常陸の小田政治の軍勢も破る。伊豆・相模・武蔵と上総・上野の一部に及ぶ領国支配の基礎を築き、このころ氏政に家督を譲る。上杉謙信が関東に出陣し小田原城を攻めたときは氏康は籠城戦術をもってこれを撃退した。同じ頃、里見義弘は太田資正とともに下総へ進み、氏康・氏政は国府台でこれを破った。武田信玄が同盟を破って駿河に進出すると、氏康・氏政治は上杉謙信と同盟(越相同盟)を結ぶ。武田信玄が小田原城へ攻めてきたときも籠城戦術で撃退した。
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ 北条氏特集ページ |
| 北条氏直 |
ほうじょう
うじなお |
1562 〜
1591 |
ミニのぼり旗2 北条氏特集ページ |
| 真田昌幸 |
さなだ
まさゆき |
1547
〜
1611 |
幸隆の三男。武田信玄に仕え、信玄に「わしの両眼の如し」と言われるほど秀才であった。武田一族の家名を継ぎ「武藤喜兵衛」と称した。信玄の小田原陽動作戦では相模三増峠の戦いで一番槍の功名をたてた。信玄没後の長篠の合戦で兄の信綱・昌輝が戦死したため、家を継いで旧姓の真田に復し、真田昌幸と名乗って上田城主となる。関ヶ原の戦いでは西軍に属し中山道を上京する秀忠の軍を一時食い止めたが、西軍が負けたため開城。二男幸村とともに高野山麓の九度山村に蟄居し、亡くなった。
商品ページ 真田氏のページ |
| 前田利家 |
まえだ
としいえ |
1538
〜
1599 |
【生没】天文7年(1538)〜慶長4年(1599)
尾張荒子城主利昌の四男。幼名犬千代。妻は斯波氏の家臣高畠直吉の娘。芳春院の法名で知られる。14歳で信長に仕え近習となった。稲生の戦いでは右眼の下に矢がつき立ったのに、その矢を抜きもせず敵兵を討ち取ったという武勇伝がある。しかし信長の同朋衆・十阿弥を勝手に成敗したことにより、森部の戦いで武功をあげるまで出仕をとどめられた。利家は赤母衣衆の一員に列せられこれ以後織田軍団の主要戦力として各地に転戦することになる。信長の命により兄利久の家督を継ぎ、摂津本願寺門徒との戦いに功を立て近江長浜城一万石に封じられた。長篠の戦後、佐々成政・不破光治とともに柴田勝家の与力となり越前府中に3万3千石を領した。次に利家は能登一国七尾城23万3千石を与えられついに国持ち大名となる。豊臣秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは降参。秀吉に臣属し、能登の他に石川・河北二郡を与えられ尾山城(金沢城)に移った。その後5大老に列せられた。秀吉没後は豊臣政権を安定させることに腐心したが、秀吉の死からわずか8ヶ月たらず、大阪で没した。
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| 武将名 |
よみ |
生〜没 |
解 説 |
| 浅井長政 |
あさい
ながまさ |
1545
〜
1573 |
【生没】天文14年(1545)〜天正元年(1573)
近江小谷城主久政の子。織田信長の妹お市を正室に迎えて信長と同盟し六角氏の内乱に乗じて六角義賢父子を敗走させ、朽木元綱も降し、南近江を経略した。しかし、信長と足利義昭の仲が険悪になると朝倉義景に与して信長に離反、更に六角義賢とも結んだ。姉川の戦いにおいて朝倉・浅井2万と織田・徳川3万の連合軍が激戦を展開したが敗戦。長政は再起不能となり小谷城に火を放って自刃した。落城の際、正室のお市の方とその娘茶々など3人は信長に引き渡した。
商品ページ ミニのぼり旗 |
| 明智光秀 |
あけち
みつひで |
1528
〜
1582 |
「敵は本能寺にあり」というセリフでも有名。美濃の土岐氏の一族で美濃明智荘にいたことから明智と名乗ったといわれるが前歴は明らかではない。信長が足利義昭を奉じて上洛した時には村井貞勝らとともに京都の行政にたずさわった。若狭平定にさいし功績をあげて近江坂本を与えられ築城した。丹波八上城攻めの際、光秀は自分の母を人質に出して城主波多野秀治と和睦をまとめかけた。ところが信長は秀治を殺してしまい、人質の母も斬られてしまった。このあたりから信長との仲が怪しくなる。丹波亀山城を預けられ、徳川家康の接待係りを命じられたが途中罷免されて備中高松城を囲んでいた秀吉の応援の出陣を命じられる。光秀は激怒しながらも出陣の準備をし備中へ出陣と見せかけて京都本能寺にいた信長を奇襲し信長を死においやった。しかし山崎の合戦において秀吉に破れ光秀の三日天下は終わる。敗走の途中小栗栖(おぐるす)で土民に刺された死んだ。
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| 石川数正 |
いしかわ
かずまさ |
?
〜
1593 |
通称与七郎。徳川家歴代の功臣。酒井忠次と並んで若い家康を補佐した長老で、家康が浜松城に移ってからは岡崎城を守って西三河衆の寄親となる。小牧戦の後、家康の使節となって上京、秀吉に会って非常な厚遇を受けるが、謀略にかかり、秀吉に通ずると噂が立ち、岡崎を出奔。秀吉のもとに走った。和泉10万石。のち信州松本城10万石に移る。 |
| 柴田勝家 |
しばた
かついえ |
?
〜
1583 |
【生没】?〜天正11年(1583)
斯波氏の一族柴田土佐守某の子ともいわれるがその出自はあきらかではない。尾張愛知郡の生まれで通称権六。妻は織田信長の妹お市のみが知られている。織田家には信秀の代から仕え、没後は信長の弟信行づきの家臣となった。一時は信長の家督相続を快く思わず林通勝らとはかって信長廃嫡を画策したが敗れて以後信長に信服する。近江長光寺を預けられ浅井長政と結んで信長の前途をさえぎろうとしていた六角承禎を制圧した。このとき勝家は城中の水瓶をすべて打ち砕き部下の士気を鼓舞して城外に打って出た話は有名である。このあと、勝家は越前の朝倉氏攻略等、戦功を重ね越前一国を与えられて北庄に城を構えた。上杉景勝軍と戦っている最中に本能寺の変報に接する。信長の後継者を決める清洲会議において秀吉に大きく遅れをとった。勝家は秀吉に不満を抱く織田信孝、滝川一益らと秀吉抹殺を企て賤ヶ岳の戦いへと突入、緒戦は甥佐久間盛政の活躍により勝利したが、盛政が撤退を怠っているうちに秀吉に形勢を逆転され北庄城に退いた。そして天守閣に火を放ち、妻お市とともに無念の自刃。その一ヵ月後、子の勝敏も近江佐和山で斬首に処された。
商品ページ ミニのぼり旗 |
| 千利休 |
せんの
りきゅう |
1522
〜
1591 |
泉州堺の魚問屋(ととや)で納屋衆の千(田中)与兵衛の長男として今市町に生まれる。抛筌斎宗易(ほうせんさいそうえき)と号した。利休とは居士号である。上洛後の信長に出仕して茶頭を勤め、信長亡き後は秀吉の茶頭となって3千石を知行した。小田原征伐や奥羽遠征に従軍。豊臣政権下の利休は秀吉の弟秀長に「内々の儀は宗易、交儀のことは宰相(秀長)存じ候」と語られたほど単なる茶匠にとどまることなく政権の裏方を管掌していた。それが災いして後秀吉に切腹を命ぜられる。 |
| 前田玄以 |
まえだ
げんい |
1539
〜
1602 |
前田玄以【生没】天文8年(1539)〜慶長7年(1602)
丹波亀山5万石の領主。秀吉五奉行の一人。美濃出身で比叡山に入って僧となり尾張小松原寺の住職になったという。秀吉とは幼い時から交際があったとする説がある。本能寺の変の時に織田信忠の命で安土にいた三法師丸(信忠の嫡男・後の秀信)を守って清洲に移った。秀信の傅役をつとめる一方で京都の所司代となり深い学識に基づく庶政をおこなった。関ヶ原の戦いの時には表面上は西軍に属しながらも三成挙兵を家康に通報するなどして所領安堵を得たが、まもなく病没した。 |
| 足利 |
あしかが |
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足利義昭(あしかがよしあき)【生没】天文6年(1537)〜慶長2年(1597)・・・室町幕府第15代将軍。第12代将軍義晴の次男。兄は13代将軍義輝。はじめ織田信長に奉じられて入京し将軍となるが、信長と不和になり、毛利・朝倉・武田・石山本願寺などを頼って信長打倒をはかる。しかし、信長に京都を追われ、室町幕府は滅んだ。三好氏や毛利氏の保護を受けた後、豊臣秀吉の保護を受け1万石。文禄の役にも秀吉に従って名護屋城に出陣。大阪にて没。
足利義輝【生没】天文5年(1536)〜永禄8年(1565)足利義輝は室町幕府十三代将軍。
将軍権威の回復につとめましたが、永禄8年5月19日に松永久秀や三好義継らに二条御所を
攻められ自害。30歳でした。 |
| 尼子 |
あまご |
|
尼子経久(あまごつねひさ)【生没】長禄2年(1458)〜天文10年(1541)・・・出雲富田城を
中心とする戦国大名。応仁の乱の頃、京都にで過ごし京の文化に接し、戦闘にも参加したと思われる。帰国し家督を継ぐと下剋上的姿勢をみせ、たまりかねた京極政経に幕府の命を引き出されて罷免される。富田城を追放された経久は辛酸の2年後に奇計をもって富田城を奪回。以後、西伯耆・美作・備中へ進出。毛利元就が麾下に参じ最盛期を迎えるが、嫡子政久を失い、また毛利家の家督相続に介入して元就を大内に走らせるなど痛手が続き次第に守勢になってゆく。嫡孫詮久(後の晴久)にほぼ全権を移譲し、まもなく没。
尼子晴久(あまごはるひさ)(1514〜1560)・・・はじめ詮久(あきひさ)。尼子経久の長男政久の次男。5歳の時に政久が亡くなり、祖父経久に養育される。家督を継ぐと安芸吉田の郡山城の毛利氏を攻めて敗退。追撃してきた大内義隆・毛利元就らの軍勢を富田城下に破り、勢力挽回に務めた。大内義隆が陶晴賢に滅ぼされると中国の覇者となったが、元就が勢力を急速に伸ばすと守勢にまわり、加えて一門の内紛で新宮党を全滅させ軍事力を失った。47歳で富田城で急死。
尼子勝久(あまごかつひさ)(1553〜1578)・・・尼子誠久(さねひさ)の五男。新宮党事件により祖父国久、父誠久ら新宮党は全滅したが2歳の勝久はかろうじて難を逃れ禅僧となる。尼子氏が滅亡したあと主家再興を企てる山中鹿介らに擁立されて還俗し勝久と名乗る。失地回復につとめたが毛利勢との布部山の戦いにやぶれる。上洛し山中鹿介らと羽柴秀吉に従って播州上月城に立て篭もったが、毛利・宇喜多の大軍に包囲され万策尽きて降伏。上月城で切腹した。26歳。
商品ページ ミニのぼり旗 |
| 今川 |
いまがわ |
|
今川家は足利将軍家と同宗の名門で、足利家に相続人がいなければ、三河の吉良家より継がせ、吉良家になければ今川家の子が継ぐということが信じられていた。
今川義元(いまがわよしもと)【生没】永正16年(1519)〜永禄3年(1560)・・・義元は氏親の
三子。18歳の時兄氏輝が早世し家督を継ぐ。今川・北条・武田と同盟をむすび東・北の憂いを
無くして西上したが桶狭間で織田信長の奇襲にあい討死した。
今川氏真(いまがわうじざね)(1539〜1614)・・・義元の長子。桶狭間で義元が敗死後家督を継いだが、武田信玄に駿府を攻められ、掛川城に難を避けたが、掛川城も徳川家康に攻められ北条家を頼った。その後北条家をさって放浪。豊臣秀吉の同情で4百石を支給される。秀吉没後は家康に仕えて江戸品川に住んだ。
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ |
| 大友 |
おおとも |
|
大友宗麟(おおともそうりん)【生没】享禄3年(1530)〜天正15年(1587)・・・義鑑(よしあき)の長子として豊後府内に生まれる。元服して義鎮(よししげ)。宗麟は剃髪してからの号である。義鑑が家督をつがせようとした次男塩市丸を排し家督を継ぐ。毛利氏の侵攻に苦しんだが元就の死で九州六カ国を制し全盛時代となった。その後島津氏と耳川で戦って大敗を喫し、島津氏の進出を防ぎかねた宗麟は豊臣秀吉に救援を求め窮地を脱したが没。
大友義統(おおともよしむね)(1558〜1605)・・・宗麟の嫡男。宗麟没後に家督を継ぐが、朝鮮の役での失態で改易となり、毛利家に預けられる。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方するつもりでいたが毛利氏から2千の兵を与えられて豊後で東軍黒田如水と石垣原で戦い惨敗。再び囚われの身となり48歳で常陸で没した。 |
| 神戸 |
かんべ |
|
桓武平氏の末葉。
神戸具盛(かんべとももり)(?〜1600)・・・伊勢神戸城主。織田信長は平和的手段で神戸氏乗っ取りを図り、三男信孝を具盛の養子に送り込んだ。(もともと具盛は関盛信を養子にする心づもりだった。)具盛は近江日野城へ強制移送の上幽閉されてしまった。ここにおいて神戸氏は没落する。信孝が四国平定のため伊勢を出発後具盛は神戸城の留守居役として戻ったが本能寺の変が勃発。秀吉と対立した信雄のもとへ走り講和後伊勢阿濃津へ移り隠棲した。 |
| 木曽 |
きそ |
|
木曽義仲の後裔と伝えられている。
木曽義昌(きそよしまさ)(?〜1595)・・・義康の子。木曽福島城主。父とともに武田信玄に降り、その三女を妻に与えられて武田一門として遇された。信玄没後は徳川家康・織田信長に誼を通じ、武田勝頼に2万の兵で攻められるが鳥居峠にて撃退。信長没後は秀吉につき小牧・長久手の戦いでは徳川家康側の保科正直と戦ったが、秀吉にうとまれ領知を皆没収された。子の義利が家康より下総阿地土に1万石を与えられたためその地に赴き同地で没した。 |
| 京極 |
きょうごく |
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鎌倉以来の名門京極家も、応仁の乱後衰退し、京極高吉はかつての家臣浅井家に属した。
京極高次(きょうごくたかつぐ)【生没】永禄6年(1563)〜慶長14年(1609)・・・幼時、織田信長のもとに人質に出されていた高次は浅井家滅亡後信長に仕えて5千石を与えられた。信長が本能寺で倒れると明智光秀に味方して秀吉の所領長浜を攻めたが、光秀があえなく敗死すると、越前の柴田勝家のもとに逃亡。しかしその勝家も秀吉に敗れたので妹婿の若狭・武田元明のところへ走った。しかしその元明も秀吉に滅ぼされてしまう。ついに逃げ場を失った高次は元明の妻だった妹の竜子を秀吉の側室にいれて危うく命を助けられ近江高島2千5百石を与えられた。その後は順調に加増され大津6万石を領有。名門京極家の再興を成しとげた。
ミニのぼり旗2 |
| 朽木 |
くつき |
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承久の変以来の佐々木氏の一族。近江高島郡朽木荘の地頭職に任じられて朽木氏を名乗るようになった。
朽木元綱(くつきもとつな)(1549〜1632)・・・晴綱の子。織田信長に仕え、越前に出兵した信長が浅井長政に退路を立たれ朽木谷に逃走した時、これを助けて無事入洛。信長没後は秀吉に仕えて2万5千石を領した。関ヶ原の戦いでははじめ西軍に属しながら、ひそかに徳川家康に通じ、小早川秀秋の裏切りに呼応して大谷軍を破り西軍壊滅の端緒をつくった。隠居後は所領を三子に分与され朽木藩は廃絶された。 |
| 佐竹 |
さたけ |
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佐竹氏は源義家の弟義光が後三年の役後に常陸介として任国に入り、子義業が久慈郡佐竹郷に拠って佐竹冠者と呼ばれたことにはじまる。平安末期には奥7郡を支配したが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収された。室町時代にようやく常陸太田城へ復帰した。
佐竹義宣(さたけよしのぶ)(1570〜1638)・・・義重の嫡子。母は伊達晴宗の娘。幼名徳寿丸。宇都宮・結城両氏と連合し、しばしば後北条氏と戦い、伊達氏の進出にも対抗した。小田原征伐では秀吉に謁見し所領は安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、出羽秋田20万石へ転封となる。 |
| 里見 |
さとみ |
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里見氏は清和源氏新田氏の一族。上野里見郷が本貫の地。義成は源頼朝に仕え伊賀守の受領を得た。建武の動乱には新田義貞に従い南朝方。のち一族が鎌倉公方の近臣。結城合戦に敗れた家基・義実父子は安房に逃れ、義通のころ安房一国を平定した。
里見義堯(さとみよしたか)(1507〜1574)・・・上総武田氏の内紛に乗じて西上総へ、家臣の正木氏は東上総へそれぞれ侵入し、久留里城に入った。さらに下総へ進み、上杉謙信と結び、渡海して相模三浦・鎌倉を侵した。義堯・義弘父子は北条氏康と下総国府台で戦い破れたが、上総三船山で北条氏政と戦いこれを破った。
里見義弘【生没】享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
里見義弘は義堯(よしたか)の子。上総佐貫城に拠り、上杉謙信と結んで北条氏と対立しました。
相模三浦郡を攻略。永禄7年には太田資高、資正と結び下総・国分台で北条氏康と
戦いますが、北條綱成の率いる北条勢に敗れました(第2次国府台合戦)。
敗戦後上総に逃れ勢力を回復しますが、天正6年に死去。 |
| 斯波 |
しば |
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斯波義統(しばよしむね)(?〜1554)・・・尾張守護義達の子。織田信友に擁せられて尾張清洲城に拠る。信友の織田信長攻撃計画を信長に内通したため信友に暗殺された。
斯波義銀(しばよしかね)(1540〜1600)・・・父義統が織田信友に殺されると信長を頼って信友を攻めた。しかし、のち三河国の吉良氏や石橋氏と結んで信長に敵対したため追放される。以後流浪したと伝えられる。 |
| 関 |
せき |
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関一政(せきかずまさ)(?〜1625)・・・伊勢亀山城に生まれる。蒲生氏郷の寄騎に付され、陸奥の白河城をあずかる。奥州九戸の乱で功をあげる。蒲生秀行が宇都宮に移った時蒲生を離れ、信濃飯山城主となり3万石を領した。関ヶ原の戦いでははじめは西軍に属したが東軍に移り井伊直政に従って戦い、戦後旧領伊勢亀山城に復帰した。その後伯耆黒坂城5万石となるが、家臣の争いにより領地を没収される。 |
| 土岐 |
とき |
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土岐頼純(ときよりずみ)(1499〜1547)・・・政房の長男。家督を継ぎ美濃守護職、河手城主となるが、家臣長井利隆は次男頼芸を擁して頼純に服さず内乱となった。松浪庄九郎(斎藤道三)は頼純に巧みに近づき河手城の不意を衝いた。頼純は朝倉義景を頼った。やはり追放された弟頼芸と朝倉義景、織田信秀の援助のもと美濃への入国をはかったが果たさずして病死した。
土岐頼芸(ときよりのり)(1502〜1582)・・・政房の次男。斎藤道三の経略により兄頼純を追い家督を継ぐ。しかし道三に追われて大桑城を脱出。漂白の後眼を患い盲目状態になる。後、旧臣稲葉一鉄の保護のもと美濃へ帰ることができたがひっそりと流浪の生涯を閉じる。 |
| 成瀬 |
なるせ |
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成瀬正成(なるせまさなり)(?〜1625)・・・正一の長男。幼少より徳川家康に仕え小姓組に列し、長久手の戦い、小田原征伐に参戦。家康関東入国の時下総葛飾郡栗原郷いおいて知行4千石。関ヶ原へも参戦した。家康の九男義直の傅役として尾張に封ぜられ、後義直より尾張犬山城3万5千石の城主となる。 |
| 鍋島 |
なべしま |
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鍋島直茂(なべしまなおしげ)(1538〜1618)・・・清房の長子。肥前佐嘉(佐賀)に生まれる。幼くして千葉胤連の養子となったが、実家に帰り龍造寺氏の前線基地である佐嘉城の守りについた。継母が龍造寺隆信の母でもあったことから直茂は龍造寺氏発展のためによく尽くした。秀吉も直茂を実質的な肥前の支配者とみなすようになった。秀吉の死後、家康に取り入り関ヶ原の戦いでは本領安堵を得、大阪の陣では嫡男勝茂を名代として参陣させ、佐賀藩はいよいよ鍋島家の者となった。 |
| 二階堂 |
にかいどう |
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二階堂氏は鎌倉末期、七世行朝が奥州に入り二階堂氏の祖となったとされる。
二階堂盛義(にかいどうもりよし)(?〜1581)・・・陸奥須賀川城主。輝行の嫡男。蘆名盛氏に攻められ、和睦し長男の盛隆を人質に差し出したが、蘆名盛興が卒去したため、盛隆が蘆名氏を相続した。これ以来蘆名・二階堂両家は一心同体となり威勢を回復し今泉城を奪回、三春城攻撃を企てるなどした。しかし、盛義・盛隆亡き後、伊達政宗の攻撃を受け須賀川城は落ち二階堂氏は滅亡となった。 |
| 畠山 |
|
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| 最上 |
もがみ |
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最上氏は清和源氏足利一門斯波氏の族で奥州探題斯波家兼の次男兼頼が羽州探題として最上郡に入り最上氏を称したことにはじまる。
最上義光(もがみよしあき)(1546〜1614)・・・父義守は長男義光よりも次男義時(義保)を溺愛し、家督を次男に相続させようとしたので義光と対立。長く内乱が続いた。庭月城主庭月広綱、真室川城主鮭延秀綱、新庄城主日野左京亮らを撃破し庄内を完全に制覇。しかし以降は上杉軍をバックにした本庄、武藤父子の軍と戦って大敗。反伊達の蘆名氏も伊達氏との摺上原で大敗し、四面楚歌状態に陥った。秀吉の小田原征伐に好機を得、危機を回避し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し52万石の大封を領するにいたった。 |
| 龍造寺 |
りゅうぞうじ |
|
龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)(1566〜1607)・・・”肥前の熊”として武名を馳せた隆信の長子。佐嘉(佐賀)城に生まれる。豊臣秀吉の九州征伐の際、参陣遅延を理由に筑前・筑後の所領を没収され、肥前35万石となった。やがて病身にいたり鍋島直茂に所領を譲って隠居する。享年42歳。 |
| 山県 |
やまがた |
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山県昌景(やまがたまさかげ)(?〜1575)・・・飯富虎昌の弟。兄虎昌が武田義信擁立の謀反があり発覚したが、進んで兄の行状を訴えたので、かえって武田信玄に重く登用され名を山県と改めて信玄の腹心となった。後、東海の要衝江尻城代となるが、長篠の戦いで壮烈な戦死をとげた。
武田24将軍特集ページ |
| 蒲生氏郷 |
がもう
うじさと |
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【生没】弘治2年(1556)〜文禄4年(1595)
商品ページ ミニのぼり旗 |
| 上杉景勝 |
うえすぎ
かげかつ |
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【生没】弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
ミニのぼり旗2
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| 朝倉義景 |
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【生没】天文2年(1533)〜天正元年(1573) |
| 佐久間信盛 |
さくま
のぶもり |
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【生没】?〜天正10年(1582)
佐久間信盛は織田信秀・信長の二代に仕え、長篠の合戦や越前朝倉攻め、
伊勢長島一揆など戦功をたてました。しかし、石山本願寺攻めの不手際によって追放され
剃髪して高野山に入り、熊野で亡くなりました。
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| 佐久間盛政 |
さくま
もりまさ |
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【生没】天文23年(1554)〜天正11年(1583)
本能寺の変に乗じて起きた能登石動山の宗徒反乱では前田利家をよく助け、
賤ヶ岳の戦いでも中川清秀を戦死させるなど軍功を挙げた盛政ですが、
秀吉に敗れ、敗走途中に囚われの身となり、降伏しなかったため斬首されました。
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| 大内義隆 |
おおうち
よしたか |
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【生没】永正4年(1507)〜天文20年(1551)
大内義隆は尼子遠征の富田城で敗北後、学問・文芸に没頭するようになります。
天文17年には従二位に叙任され、将軍をのぞけば武家として最高の階級となりましたが
従来からの文治派、武断派の対立や文事に走る義隆への不満から陶晴賢らに排斥され
深川の大寧寺(長門市)に火を放たせ45歳の生涯を閉じます。 |
| 荒木村重 |
あらき
むらしげ |
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【生没】?〜天正14年(1586)
信長に離反した村重は毛利家に寄って生き長らえ、秀吉の代になって堺に招かれ、
剃髪して筆庵道薫と号し茶道を利休に学び、利休七哲の一人と称されるまでなりました。 |
| 高橋紹運 |
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【生没】天文17年(1548)〜天正14年(1586) |
| 太田道灌 |
おおた
どうかん |
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【生没】永享4年(1432)〜文明18年(1486)
歌人としても多くの歌を残している太田道灌は扇谷上杉氏の譜代の家人です。
父・道真とともに、江戸・川越・岩付(岩槻)の3城を築きました。
善政で人望を集めましたが主君の上杉定正に抹殺されてしまいます。 |
| 佐々成政 |
さっさ
なりまさ |
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【生没】天文5年(1536)〜天正16年(1588)
佐々成政ははじめ織田信長に仕え黒母衣衆の筆頭に選ばれてます。
本能寺の変後しばらくして秀吉の臣下に列すること決めますが、秀吉打倒の織田信雄
徳川家康に呼応して秀吉方の前田利家と戦ったため、秀吉の攻撃を受け頭を丸めて
降伏しました。九州征伐後肥後国主に任じられましたが国人領主層の反抗を受け、
鎮圧に不手際があったとして、天正16年摂津尼崎で切腹させられます。
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| 立花道雪 |
たちばな
どうせつ |
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【生没】永正12年(1515)〜天正13年(1585)
旧姓・戸次鑑連(べつきあきつら)、「西の大友」と言われるほどの大友氏の重鎮で、
大友宗麟は道雪に立花城を守らせ、同時に立花姓も名乗らせる事にしました。「道雪」は
剃髪してからの号です。生涯に37度戦って一度も負けたことがない勇将で、
毛利氏や島津氏の侵攻で落ち目となった大友氏を見捨てず最後まで大友氏を守って
戦いました。道雪は若い頃雷に打たれて歩行が困難になり輿に乗って陣中で指揮を
とっていたそうです。 |
| 津軽為信 |
つがる
ためのぶ |
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【生没】天文19年(1550)〜慶長12年(1607)
為信は陸奥弘前藩4万7千石の初代当主。はじめ南部氏族だった大浦氏を名乗り
大浦城にいましたが南部氏の津軽支配が衰えたので自立。天正年間の頃
津軽地方を統一しました。豊臣秀吉の小田原征伐にはいち早く参陣して本領安堵。
この頃より「津軽氏」を称するようになります。 |
| 平塚為広 |
ひらつか
ためひろ |
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【生没】?〜慶長5年(1600)
平塚為広は豊臣秀吉の臣。小牧長久手の戦い、小田原征伐に戦功があり印旛守に
任じられ5万石を与えられました。次いで、美濃垂井1万2千石を領し秀頼に近侍します。
関ヶ原の戦いでは大谷吉継の使者として石田三成を佐和山に訪問。伏見城攻略後、
関ヶ原の前線で戦います。しかし小早川秀秋の裏切りを知り本体(大谷吉継隊)
支援のため兵をまとめて引き返し、背面の敵と激戦。敵の兜首2個を吉継に
送りましたが戦死します。 |
| 吉川元春 |
きっかわ
もとはる |
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【生没】享禄3年(1530)〜天正14年(1586)
吉川元春は毛利元就の二男。母方の安芸国山形郡の豪族吉川興経の養嗣子となって
家督を継ぎます。弟の小早川隆景とともに毛利家を輔佐して毛利両川と称されました。
父元就とともに尼子義久を降伏させるなど武功をあげますが備中高松城の合戦では
講和を結び、本能寺の変後、秀吉の配下になるのを拒んで、家督を長男元長に
譲りました。天正14年毛利輝元の要請を受けて九州に出陣中に病没。
享年57歳でした。
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| 吉川広家 |
きっかわ
ひろいえ |
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【生没】永禄4(1561)〜寛永2年(1625)
広家は吉川元春の三男。父の尼子勝久討伐で初陣。兄・元長の死により家督を
継ぎました。関が原の戦いの後、初代岩国藩主となり、65歳の時隠居所で
亡くなりました。 |
| 富樫政親 |
とがし
まさちか |
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【生没】康正元年(1455)〜長享2年(1488)
政親は北加賀守護成春の子。寛正5年富樫泰高より南加賀の守護職を譲られました。
応仁の乱が起こると、加賀一国の支配をめぐり骨肉の争いが起きます。
政親は越前守護朝倉孝景の支援を仰ぎ、蓮如の率いる本願寺と結び親族の幸千代党を
圧倒することが出来ましたが、その後本願寺門徒の弾圧に転じたため、長享2年6月、
一向一揆に攻められて高尾城にて死亡しました。 |
| 中川清秀 |
なかがわ
きよひで |
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【生没】天文11年(1542)〜天正11年(1583)
中川清秀は摂津茨木城主。はじめ池田勝政に仕えて摂津高槻城主・和田惟政を討ち取り
ました。その後織田信長に仕え荒木村重の配下になりますが、村重が信長に叛いたので
信長直属となります。山崎の合戦では秀吉につき軍功をあげ、賤ヶ岳の合戦では大岩山の
砦を守って佐久間盛政と戦い戦死しました。享年42歳。 |
| 三浦道寸 |
みうら
どうすん |
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【生没】?〜永正13年(1516)
三浦義同(よしあつ)は扇谷上杉高救の子で、相模守護三浦時高の養子となりましたが
実子高教が生まれたので、いったん出家して道寸と名乗り、足柄の総世寺に隠れます。
その後新井城に時高、高教を攻め滅ぼし三浦家を手に入れ、相模岡崎城に拠りました。
しかし北条早雲に攻められて、最後は新井城にて防戦、兵糧がつきて自刃します。 |
| 三好長慶 |
みよし
ながよし
(ちょうけい) |
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【生没】大永3年(1523)〜永禄7年(1564)
長慶は三好家全盛期の当主。将軍足利義輝や管領細川晴元と戦って勝ち、
摂津芥川城を本拠として独自に畿内を支配する体制(三好政権)を築きました。
のち、山城・摂津・和泉・丹波・淡路・阿波と、讃岐・播磨・伊予の一部に一族諸将をおいて
支配下を拡大。しかし執事とした松永久秀が次第に勢力をのばして長慶の権力は
衰えはじめます。嫡子義興が毒殺され、さらに久秀の讒言を信じて弟の安宅冬康を
殺してからは政務から離れ、河内飯盛城で病死しました。 |
| 別所長治 |
べっしょ
ながはる |
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【生没】永禄元年(1558)〜天正8年(1580) |
| 筒井順慶 |
つつい
じゅんけい |
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【生没】天文18年(1549)〜天正12年(1584)
筒井順慶は大和興福寺の官符宗徒(僧兵)筒井順昭の子。
順昭の代でほぼ大和全域を平定しましたが順昭は順慶が2歳の時に亡くなります。
松永久秀に筒井城を追われて興福寺で得度、陽瞬順慶と名乗りました。
その後織田信長に接近し、大和を与えられた。山崎の合戦では秀吉に名器
「井戸茶碗」を持参して領国の安堵を得ます。謡曲、茶の湯にも優れた風流人でも
あったそうです。36歳で没。 |
| 秋田実季 |
あきた
さねすえ |
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【生没】天正4年(1567)〜万治2年(1659)
秋田実季(さねすえ)は出羽土崎湊城主。天正18年に豊臣秀吉から檜山・秋田郡のうち
5万2千石の安堵を得て同19年より秋田氏を称します。慶長7年には所領を削られて
常陸宍戸へ5万石を持って転封。伊勢朝熊に蟄居後は凍蚓(とういん)と号しました。
享年84歳。 |
| 山名宗全 |
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【生没】応永11年(1404)〜文明5年(1473)
宗全は剃髪してからの号で、本名持豊(もちとよ)。嘉吉の乱で赤松氏を打ちこの功により
播磨、石見の守護職を与えられました。一族としては、備後・安芸・伊賀・備前・美作も得て
山名氏の勢力を回復。その後赤松氏再興に助力した細川勝元と対立しだし、
足利将軍家や畠山氏、斯波氏の継嗣争いがからんで、応仁の乱に発展。戦乱は
地方へ拡大してゆく中、西軍の大将をつとめましたが勝敗が決まらないまま病没
してしまいました。 |
| 陶晴賢 |
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【生没】大永元年(1521)〜弘治元年(1555)
晴賢(はるかた)は周防守護代興房の二男。19歳で家督を継ぎました。文事にはしる主君
大内義隆を排斥し、大友宗麟の弟晴英を迎えて主としましたが津和野の吉見正頼や
毛利元就がこれに叛きます。弘治元年に厳島において元就との戦い敗れて自刃。
享年35歳でした。 |
| 長束正家 |
なつか
まさいえ |
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【生没】?〜慶長5年(1600)
長束正家は近江水口城主。豊臣秀吉の五奉行の一人で財政を担当しました。
はじめは丹羽長秀・長重に仕えていましたがその後秀吉に仕え、小田原征伐での
兵糧輸送や太閤検地で活躍します。関が原の合戦では西軍に属し、安濃津城攻撃後
南宮山に布陣しますが、敗北後捕虜となり近江桜井谷で自刃しました。 |
| 堀秀政 |
ほり
ひでまさ |
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【生没】天文22年(1553)〜天正18年(1590)
堀秀政は秀重の子。はじめは斉藤氏に仕えますが、のち木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕え
まもなく織田信長の直臣に抜擢されました。天正6年頃長浜城主2万1千石。
荒木村重討伐や武田攻略に従軍。秀吉の中国攻めの援兵中に本能寺の変があり、
そのまま秀吉に属して山崎の戦では先鋒をつとめます。賤ヶ岳の戦い後は
近江佐和山9万石。小牧・長久手、紀伊根来攻め、中国征伐後には越前北庄
18万850石に移封され、村上義明、溝口秀勝を与力大名としてつけられました。
九州征伐にも従軍。次の小田原征伐の陣中で病没しました。38歳。 |
| 斉藤利三 |
さいとう
としみつ |
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【生没】天文3年(1534)〜天正10年(1582)
斉藤利三ははじめ、斉藤義竜に仕え、次に稲葉一鉄、のちに織田信長に仕え、その後
叔父である明智光秀に仕え本能寺の変をむかえます。山崎の合戦での敗走時に
近江の堅田で捉えられ、京都で処刑されます。 |
| 長尾為景 |
ながお
ためかげ |
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【生没】生年不詳〜天文5年(1536)
長尾為景は越後守護代能景の子。(上杉謙信の父といったほうが有名)関東管領
上杉顕定をも敗死させて、越後の国政を実質的に掌握しました。その後主君である
守護上杉定実とも不和が表面化し、家督を長子晴景に譲り、病没。天文5年の
栴檀野(せんだんの)の戦いで戦死とも伝わっています。 |
| 小早川隆景 |
こばやかわ
たかかげ |
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【生没】天文2年(1533)〜慶長2年(1597)
隆景は毛利元就の三男。安芸国小早川家の養子となり兄・吉川元春とともに父元就を
助け、甥の輝元を輔佐しました。四国平定には元春とともに伊予を攻略し、
伊予35万石を与えられます。豊臣五大老の一人にも数えられます。家督を秀吉の
猶子秀秋に譲り、備後三原城に隠居して、慶長2年に没しました。享年65歳。
商品ページ ミニのぼり旗 家紋はんこ |
| 安宅冬康 |
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【生没】永禄4(1561)〜寛永2年(1625)
安宅冬康は三好元長の三男(三好長慶の弟)。淡路の土豪で安宅氏を継ぎ、
淡路水軍を統率しました。 |
| 丹羽長重 |
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1571〜
1637 |
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| (信長家臣関連追記分) |
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| 簗田広正 |
やなだ
ひろまさ |
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生没年不詳。信長に仕え戸次(べつき)あるいは別喜(べつき)右近大夫とも称す。
桶狭間合戦のとき、奇襲作戦の唯一の支持者であったことから、戦後、
信濃沓掛三千貫。のち、加賀天神山城主。しかし一揆の再起により大聖寺城に
退去を余儀なくされ安土で蟄居。 |
| 不破光治 |
ふわ
みつはる |
?〜
1580頃 |
美濃西保城主。土岐・斉藤両氏に仕え、のち信長に臣従。
柴田勝家の与力として越前府中10万石を与えられました。 |
| 稲葉一鉄 |
いなば
いってつ |
1515〜
1588 |
美濃の国人。土岐、斉藤、織田、豊臣氏に仕える。最後の名前は「良通」。
(安藤守就、氏家ト全、不破光治とともに美濃四人衆) |
| 川尻秀隆 |
かわじり
ひでたか |
1527〜
1582 |
織田信秀・信長の臣。今川氏との小豆坂合戦にも従軍。武田氏滅亡後は甲斐府中城主。 |
| 阿閉貞征 |
あつじ
さだゆき |
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浅井長政の臣で近江・山本山城主。のち織田信長に通じ、本能寺の変後は明智光秀に
与力して一族とともに殺害されました。 |
| 細川藤孝 |
ほそかわ
ふじたか |
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幕府奉公衆三淵晴員の子。晴員の実兄細川元常の養子となり、兵部大輔に任じられ、
元常の死後家督をつぐ。幽閉されていた義昭を脱出され、織田信長に依頼してともに
上洛。信長から山城長岡を与えられ長岡姓に改姓しました。 |
| 九鬼嘉隆 |
くき
よしたか |
1542〜
1600 |
織田信長の京都進出の頃からその支配下に属し、長島願証寺の一向一揆や
石山本願寺攻撃の際に活躍。伊勢・志摩両国のうち三千五千石を領しました。
関ヶ原では西軍に属し、敗戦後自刃。 |
| 高山重友 |
たかやま
しげとも |
|
摂津島上郡高槻のキリシタン大名。荒木村重の反逆の際には、人質をだして信長に
従う。本能寺の変後は秀吉つき高槻4万石を安堵されました。 |
| 氏家直昌 |
うじいえ
なおまさ |
|
左京亮。信長の臣。直元の子。美濃大垣城主。信長に追われて朝倉氏のもとに
身を寄せていた斉藤竜興を斬った。 |
| 丸毛光兼 |
まるも
みつかね |
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斉藤、織田、豊臣の臣。美濃・多芸郡の土豪。生没年不詳。 |
| 市橋利尚 |
いちはし
としひさ |
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斉藤氏の臣。美濃・市橋(揖斐郡池田町)の地頭の家柄。生没年不詳。 |
| 金森長近 |
かなもり
ながちか |
1524〜
1608 |
飛騨高山城主。本能寺の変に際しては、秀吉軍に加わる。
その後剃髪し、金森法印と通称されました。(五郎八は幼名) |
| 村井貞勝 |
むらい
さだかつ |
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織田信長の臣、京都所司代など、足利義昭の説得役などもをつとめる。
石山本願寺攻撃に参加。のち剃髪して春長軒と号し、本能寺の変に際しては
二条御所で信忠に殉じました。 |
| 森長可 |
もりながよし |
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1558-1584 勝蔵、武蔵守。美濃金山城主。「鬼武蔵」とも呼ばれました。信長没後は
秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いで戦死。 |
| 森蘭丸 |
もりらんまる |
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1561-1582 森長定(ながさだ)。織田信長の近臣。本能寺の変で弟の力丸、坊丸とともに戦死。 |
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| 毛利新助 |
もうり
しんすけ |
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毛利新介。生没年不詳。桶狭間の合戦で敵将今川義元の首級をとる。黒母衣衆。 |
| 猪子高就 |
いのこたかなり |
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?〜1582 織田信長の臣。摂津に住み生田氏を称し、のち猪子と改めたとも、
尾張出身で斉藤氏に仕えていたとも諸説あり。本能寺の変で戦死。 |
| 猪子一時 |
いのこかずとき |
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1542〜1626 織田信長の赤母衣衆、のち秀吉に仕えて2730石。関ヶ原時のは
伏見城攻撃に西軍として参加し、寝返って関ヶ原では東軍として参加。 |
| 長谷川橋介 |
はせがわはしすけ |
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?〜1572 織田信長の赤母衣衆、桶狭間の合戦に参加。のち勘気をこうむり徳川家康の
もとにいましたが、三方ヶ原の戦いの際、信長の援軍に駆けつけ戦死。 |
| 蜂屋頼隆 |
はちやよりたか |
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1534〜1589 越前敦賀城主。美濃出身ではじめ土岐氏に仕え、斉藤氏、織田信長、
豊臣秀吉に仕える。羽柴の姓を授けられ「羽柴敦賀侍従」とも呼ばれました。 |
| 原田直政 |
はらだなおまさ |
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?〜1567 織田信長の臣。はじめ塙九郎左衛門重友と称していたのを原田備中守と改称。
信長が東大寺正倉院で蘭奢待を賜ったときにこれを監督。摂津三津寺で戦死。
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随時追加中です。 |
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