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  武田二十四将  
  講談「三方ヶ原」

 「武田二十四将」は甲斐の名将武田信玄の率いる"武田軍団"の中核として
活躍した猛将・剛将たちの呼称として有名です。その顔ぶれは信玄時代の
武将群に限定されず、父・信虎、子・勝頼時代に活躍した武将にまで及んでいます。
「武田二十四将図」という掛け軸も多種描かれていますが、そこに描かれている
武将も実に様々で時代や絵師によって固定の24名ではありませんでした。

このページでは武田神社古城址蔵版の掛け軸に登場する24将を主軸にしての
ご紹介と、特別製作のミニのぼり旗、講談による武田軍の備え等を特集しています。
講談「三方ヶ原」
他の戦国武将ミニのぼり旗はこちら
※武田24将ミニのぼり旗は特別製作品のため予告無く終了する場合がございます。どうぞご了承下さいませ。

※旗デザインは武田神社発行「名将武田信玄」を参考にしました。
武将名 イメージ 備   考 ミニのぼり旗 商品番号
穴山信君
(あなやまのぶきみ)
武田親族衆の筆頭、母は信玄の姉、
妻は信玄の娘なので、信玄は叔父であり、
信玄の義父でもある。
文武に秀でた文化人でもあり領民からは
名君といわれました。
後年武田氏を離れ徳川家康に降る。
FT24-01
\1,300

注文数
甘利虎泰
(あまりとらやす)
甘利氏は代々武田氏の族臣で、
虎泰は武田家最高の政治機構とされた
「識(しき)」の任にありました。
合戦時は先陣をつとめた剛の者としても
知られています。天文17年の上田原合戦で討死。
FT24-02
\1,300
完売
ありがとう
ございました。
秋山信友
(あきやまのぶとも)
秋山氏は甲斐源氏の流れをくむ
名族。信友は信州伊那地方の飯田城代として
織田信長を牽制しました。
西上作戦では岩村城を落城させますが、
長篠の敗戦後に捕らえられ処刑されました。
FT24-03
\1,300

注文数
板垣信方
(いたがきのぶかた)
武田氏の族臣、信玄の傅役。
甘利氏とともに武田家最高の政治機構とされた
「識(しき)」の任にありました。
信玄の唯一の敗戦といわれる「上田原の戦い」
で戦死。
FT24-04
\1,300
完売
ありがとう
ございました。
一条信竜
(いちじょうのぶたつ)
武田信玄の異母弟。
騎馬百騎を預かり、副大将格で信玄を補佐。
設楽が原の戦いでも味方が退くのを確認するまでは
動かなかったという
豪胆な武将。武田家滅亡後、捕らえられて処刑される。
FT24-05
\1,300
完売
ありがとう
ございました。
飯富虎昌
(おぶとらまさ)
「武田の赤備え騎馬軍団」の首領。
武田家譜代の重臣で「甲山の猛虎」と
恐れられる豪勇でしたが
信玄の息子:義信の謀反事件に
かかわって処刑される。
FT24-06
\1,300
完売
ありがとう
ございました。
小山田信茂
(おやまだのぶしげ)
武田親族衆、信玄と従兄弟。
岩殿山城主。武田家滅亡直前に離反。
織田側では主家を裏切った
不忠者として捕らえられ切腹しました。
FT24-07
\1,300

注文数
小幡虎盛
(おばたとらもり)
8歳の頃に父親が武田に被官し
元服の時に小幡氏を継ぐ。「武田の鬼虎」の
異名をもつ剛将。
「よくみのほとをしれ」(よく身の程を知れ)の
遺言でも有名。
FT24-08
\1,300

注文数
小幡昌盛
(おばたまさもり)
虎盛の嫡男。旗本足軽大将。
「甲陽軍鑑」を集大成した軍学者小幡景憲の
父でもある。
武田家滅亡の5日前に病死。
FT24-09
\1,300

注文数
武田信繁
(たけだのぶしげ)
信虎の二男・信玄の同母弟。
典厩(てんきゅう)信繁が通り名になっています。
つねに武田副大将として活躍。
第4回目の川中島の合戦で
戦死しました。

※余談ですが、真田幸村の正式な名前は
真田信繁です。父・昌幸が典厩信繁の武勇に
深く感じ入り幸村に命名したといわれています。
FT24-10
\1,300

注文数
武田信廉
(たけだのぶかど)
信虎の三男・信玄の同母弟。
信玄の没後に剃髪して逍遥軒(しょうようけん)と
号しました。画家としても優れていた文化人。
信玄によく似ていたといわれ
数々の合戦で影武者をつとめていたと
伝わっています。

※信玄が影武者を実際につかったか
どうかは不明です。
FT24-11
\1,300

注文数
多田満頼
(ただみつより)
伝説的な武勇が多く甲陽軍鑑では
「甲陽の五名臣」にあげられています。
川中島の合戦直前までは足軽隊将として
活躍しています。史料にとぼしく村上義清の
臣だったとも、美濃出身ともいわれています。
川中島合戦中に病死。

※甲陽軍鑑(こうようぐんかん)とは20巻からなる
甲州流軍学書。
信玄・勝頼2代の事蹟や軍法を中心に書かれ、
江戸初期に完成しました。
FT24-12
\1,300

注文数
真田信綱
(さなだのぶつな)
信玄の隠れた軍師といわれる真田幸隆の
嫡男。川中島の戦いでは旗本組として活躍。
三方ヶ原でも先陣をつとめる。
真田氏を継いだ翌年の長篠の戦いで戦死。
FT24-13
\1,300

注文数
六文銭
三枝守友
(さいぐさもりとも)
甲斐武田氏に名族三枝氏を一族の石原
守綱が再興することを許されての3代目。
守友は信玄、勝頼の2代に仕えました。
勇者として評判を高めた守友が譜代の
山県昌景の猶子となり山県善右衛門と
なったとの説もあります。
長篠の戦いで戦死。
FT24-14
\1,300

注文数
三枝氏の三階松紋は霊芝ともいわれます。
霊芝の別名「福草」は「サキグサ」と読みます。

第23代顕宗天皇のとき、ある廷臣が宮殿近くに生えた
三つの枝の霊芝を献上したところ「おおサキ草じゃ。
以後汝も三枝のサキグサと申せ」と連(むらじ)の姓を
賜りました。それから霊芝をサイグサと呼び、三枝を
当てたと言われています。霊芝の家紋はいつの間に
か形状の似た三階松になってしまったそうです。
山県昌景
(やまがたまさかげ)
はじめ飯富源四郎。信玄の嫡男義信と
その重臣だった兄:飯富虎昌の謀議を訴え出て、
三百騎の侍大将に昇進。
その後、名門山県氏の名跡を継ぎました。
FT24-15
\1,300

注文数
山本晴幸
(やまもとはるゆき)
「勘介」の方が有名。
甲陽軍鑑によると三河出身。
各国の事情に精通し天文・兵法・槍術など
武芸を体得した兵法者でした。
自らが提言した川中島の戦いの
「きつつき戦法」が上杉軍により裏を
かかれてしまい戦死。
FT24-16
\1,300
完売
ありがとう
ございました。

馬場信春
(ばばのぶはる)
信虎、信玄、勝頼に仕えた譜代の老臣。
旧姓・教来石(きょうらいし)景政。
信玄の命により馬場氏を継ぎました。
長篠の合戦で戦死するまではかすり傷ひとつ
受けなかったという智勇兼ね備えた猛将です。
FT24-17
\1,300

注文数

原虎胤
(はらとらたね)
信虎、信玄の二代に仕えた武将。通称
「鬼美濃」で有名です。千葉氏(平家)の
後裔で信虎の代に甲斐に移り迎えられました。
勇猛さと美濃守であったことから
「鬼美濃」と呼ばれましたが、
情に厚い武将でもあったようです。
※原虎胤亡き後、馬場信春が「鬼美濃」に
あやかれと、美濃守を
名のることを許されています。
FT24-18
\1,300
注文数

原昌胤
(はらまさたね)
甲斐の旧族。騎馬武者をひきいた隊長で
陣場奉行を務めました。
職がら華やかな戦歴はありませんが、
縁の下の力持ち的存在でした。
上記の原虎胤とは全く別の系統です。
FT24-19
\1,300

注文数

高坂昌信
(こうさかまさのぶ)
信玄、勝頼に仕えた知将。
もとは石和の豪農・春日大隅の子。
川中島の合戦の功により
名族高坂氏を継ぎました。
長篠の合戦の際は上杉勢の牽制
のため海津城にとどまっており、
その後病没。
(甲陽軍鑑の原作者でもあります。)
FT24-20
\1,300
完売
ありがとう
ございました。
内藤昌豊
(ないとうまさとよ)
信玄、勝頼に仕えた副将格。
武田信繁(信玄の弟)の没後は
こう評価されていた器量人でした。
はじめ工藤祐長。関東の箕輪城攻略後、
信玄の命により名族内藤氏を継ぎます。
長篠の合戦には味方の
不利を訴えつつも受け入れられず戦死。
FT24-21
\1,300

注文数
土屋昌次
(つちやまさつぐ)
信玄、勝頼に仕えた若手武将。
はじめ金丸平八郎。川中島の合戦後、
信玄の命により名族土屋氏を継ぎました。
17歳の時に川中島で初陣。この時
信玄の側を離れずに応戦して守るなど
武勇も多いですが長篠の合戦で戦死。
FT24-22
\1,300

注文数
横田高松
(よこたたかとし)
信虎、信玄に仕えた足軽隊将。
もとは伊勢の住人
(甲斐にきたいきさつは不明)。
板垣、甘利、飯富隊とならんで精鋭部隊といわれ、
有名な「砥石くずれ」
(信玄VS村上義清の戦い・上田市)
で殿をつとめ戦死。
FT24-23
\1,300

注文数
真田幸隆
(さなだゆきたか)
FT24-24
\1,300

注文数
六文銭
曽根昌世
(そねまさただ)
調査中 信玄、勝頼に仕えた情報系の武将。
曽根氏は武田氏の古い分流で昌世もその後裔と
伝わっています。
検使役もつとめ三増峠の合戦では、
戦死した浅利信種のかわりに
指揮をつとめ武勇も高めました。
【↑のぼり旗仕様】

旗:cmポリエステル
スタンド:高さ20cm
スチロール(プラスチック)
台座裏面に鉄のおもりが
ついています。

※陣場奉行とは合戦時に地の利、水の利などの地形を見極め、味方が有利に戦える場所や築城予定地を選定したり、
戦況を監視しつつ次の作戦の陣取り計画をたてるなど地味ではありますが、切れ者でなければ務まらない重要なお役目でした。


このほかに真田昌幸が養子へいっていっていたころの武藤昌幸名で加わっている場合や、甘利氏からもう一人昌忠が
加わる場合もあります。
参考文献:武田神社発行「名将武田信玄」
錦絵絵葉書
錦絵に見る
川中島合戦と武田廿四将
商品番号 BNNH   錦絵絵葉書 ¥2,625(税込)
※郵便番号欄が5桁の時代の絵葉書です。どうぞご了承下さい。

32枚セット
化粧箱入り

注文数
※セット内容はこちらのページに一覧表がございます。→錦絵絵葉書のページへ



「講談:三方ヶ原」
※「講談」とは話芸の一種で、釈台を前に座し、張り扇でこれを叩きつつ朗々と歯切れよく物語を聞かせる芸です。
主に寄席で演じられ、内容は軍記、武勇伝、世話物など多様です。起源は元禄(1688〜1704)頃で、
江戸時代には「講釈」と呼ばれていました。

「講談:三方ヶ原《味方ヶ原の偵察(ものみ)》では内藤三左衛門信成が、武田軍の様子を主君の家康に
報告する場面で、多くの旗印が紹介されています。内容の旗印は史実にそっているとはいえないようですが、
旗指物関係の部分を抜粋でご紹介します。参考文献「旗指物:高橋賢一氏著:新人物往来社。
(イラストは"いろは"の推定・想像イメージです。一部作業中の部分があります。)
「講談:三方ヶ原」(一部)  
さてまっ先に見えたるは、赤地に金を以て正八幡大武神と書いたる旗、
赤地に白く桔梗の紋付きたる旗、銀の双股大根、猩々緋、一段幡連の馬印
を押し立て、雑兵に至るまで、皆茜色の陣羽織を一着なし、鶴翼に備え、
その勢三千余人、これ甲陽名代の赤備え、山県三郎兵衛昌景なり。
それより右手の方に少々離れて、白地に大山道段々染の旗、
銀の十六葉枝菊に、金短冊十八枚付いたる馬印を押し立て、 
足軽小者に至るまで、みな白木綿の羽織を着なし、三千余人一隊の白備え、
旗下に立ったる大将は、甲陽にて智者と知られたる、源三位兵庫頭頼政の末孫、
信州槇の城主たる、馬場美濃守信房なり。

その次は紺地に白く、四ツ石畳の旗、銀輪違いに朱の一段幡連の馬印、
小者に至るまで皆一様の黒備えにて、その勢二千余人は、これ信玄秘蔵の勇士、
二十歳の時に国家の政治を司り、家老の列に加わりたる前名金森平八郎、
当時土屋の家名をつぎ、土屋右衛門尉直村とこそ知られたり。

それと相並んで黄地に藤の丸の大旗、金の亀甲に、黄羅紗の幡連の馬印を
押し立て総うこんの備え、同勢二千余人は内藤修理介昌豊、
浅黄地に六文銭の旗一ト流、唐人笠の馬印を押し立て、総浅黄地の
備えせし二千余人は、海野小太郎幸氏より十七代の後*にて真田源左衛門信綱なり。
これを甲陽先鋒五色備えと号すなり。
引き続いて浅黄地に三ッ山形にスワマの旗、銀の菅笠に猩々緋二段幡連の馬印、
その勢二千人は穴山伊豆入道梅雪なり。 

相備えとして浅黄地に芦の葉の紋打ったる旗一ト流、芦の葉に猩々緋幡連の馬印は、
芦田下野守義綱なり。

紺地無地の旗、二段鳥毛の馬印は、小山田備中守信俊なり。
白地に刻み花菱の旗、金の柔竹の馬印は、武田右馬介信豊なり。

白地に黒く立花の旗、銀蛇龍の馬印は、秋山伯*守信親なり。

紺地に赤く花菱の旗、金三光の馬印は、仁科上野介信次なり。
五枚根笹の旗、金団扇の馬印は、小幡山城守虎盛入道なり。
白地に三蓋菱の旗、金二ッ団子の馬印は、小笠原信濃守政長なり。
紺地に白く九曜の星の旗、銀の五枚柏に角取紙の馬印は、保科弾正忠正道なり。
金にて鶴の丸の旗、銀の丸竜に猩々緋のブラブラの馬印は、諏訪安芸守頼忠とこそ知られたり。
紺地に白く五三の桐の旗、赤地に黒く山道の大幟半に、金にて卍の馬印は、
芦田上野教行なり。
水色に白く立浪の旗、三本薄に金の三ッ団子の馬印は、望月岩見守晴時なり。
赤地に千羽鶴の大幟半、八尺の大外輪に南無阿弥陀仏と書いたる馬印は、
安中左近繁国なり。白地に三蓋松の旗、金芭蕉の馬印は、三枝勘解由左衛門晴高なり。
浅黄地に白色の紋付いたる旗、猩々緋五段幡連の馬印は、曹根下野守信久なり。
赤地に大文字の旗、猩々緋銀三方面武田菱二段幡連の馬印は、
これ中軍の大将新屋形、わが朝にて項羽と聞こえたる無双の勇士、武田伊奈四郎源勝頼なり。
同勢およそ三千余人、以上前備えとして、人数一万八千余人なり。

後陣先鋒の大将には、
栃葉色の旗二タ流れ、赤熊の大纏を押し立てしは、甲斐の国にて古今の采配取と呼ばれたる、
信州海津の城主高坂弾正昌信なり。
白絹に武田菱の旗、金三本竹刀の馬印は、
武田孫六入道逍遥軒なり。

水色に剣花菱の旗、金の扇に白縮緬の吹流付けたる馬印は、
小山田兵衛尉信重なり。

赤地に六文銭の旗、銀の大わらび手の馬印は、真田兵部昌輝、
同じく六文銭の旗、銀の唐人笠の馬印は、真田安房守昌幸なり。
丸に六ッ引両の旗、金の手鉾の馬印は、原隼人正昌勝なり。角取紙に三文字の旗、
銀の銀杏の馬印は、一条右衛門大夫信盛なり。
五枚笠の旗に朱の傘、金の短冊六十枚付いたる大馬印、朱の輪法車の小纏を押し立てしは、
根岸山城守信幸なり。九曜の星の旗、槌車の大幟半に、金の三俵俵の馬印は、
落合伊勢守虎正なり。
この手柏の旗、金の蛇龍の上に蜻蛉の馬印は、市川和泉守信孝なり。
白絹に朱をもって、熊野三社大権現と大筆に書いたる旗、黒地に白く帆掛船の幟半に、
銀の御幣の馬印は、清野常陸介正純なり。
紺地に白く丸に上の字の旗、白紙の大幟半に運在天と書いたる馬印は、
屋代安芸守信貞なり。
白絹に六文銭の旗、金鎧蝶に猩々緋二段幡連の馬印は、海野常陸介幸秀なり。
紺地に赤く鷹の羽打違の旗、(丸なし紋の旗に修正予定)藤巴の幟半に**の馬印は、
布施大和守晴房なり。
赤地に金をもって、丸に上の字の旗、青黄赤白黒の吹流は、宝賀出羽守昌高なり。
水色に立浪の旗、金鍬形の馬印は、桂山治部少輔昌勝にして、以上後陣の配備なり。

さてそれより信玄の御本陣は、およそ五千人と相見えたり。
八門遁甲の備えを立つる。実は門を立つるが定法なれども、これは心ばかりの門なり。

子の方に、丸に三蓋菱の旗押し立てしは、跡部大炊助なり。
丑寅の方に、五枚笹の旗押し立てしは、小幡上総助なり。
卯の方に三蓋菱の旗押し立てしは、小笠原掃部助時幸なり。
辰巳の方に、太輪鳶の旗押し立てしは長坂長閑斎なり。
午の方に、角切角に三文字の旗は、一条信濃守なり。
未甲の方に、松皮菱の旗押し立てしは、逸見山城守なり。
酉の方に、桔梗の紋打ったる旗は、小田切刑部少輔なり。
戌亥の方に、花輪違の旗押し立てしは、日向大蔵助なり、
右八方の備えを立て、一手五百人ずつ、五八、四千人なり。

そのまん中に千人、中央に床几を据え、前後左右にきらめきわたって見えたるは、
孫子の旗、勝軍地蔵の旗、南無諏訪南宮法性上下大明神と書いたる旗、
白地に武田菱を染め抜いたる旗ばかり七流、
総じて旗数二十八流なり。
相並んで金武田菱三方見込猩々緋幡連の馬印、白地に金をもって
「天上天下唯我独尊」と刺繍をなしたる旗、なおまた白綸子に武田菱を銀糸を以て
刺繍をなしたる旗、その下に
「甲斐源氏棟梁弓矢智織武田大膳大夫兼信濃守源晴信入道
法性院殿大僧正徳永軒機山信玄大居士」その日のいでたちを見てあれば.....。

                                          (以下省略)


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