| 名 |
よみ |
解 説 |
| 笹竜胆 |
ささりんどう
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武将の家系を調べたりすると源氏系か平氏系かというところまで
必ずさかのぼることになります。ブランドのように
清和源氏流とか桓武平氏流などたくさんでてきます。
笹竜胆は村上源氏の代表家紋です。
宇多源氏も家紋に使用していたようですが、武家の間では
資料に記載がないので、公家の間のみに使用されていたと
考えられているそうです。
江戸時代になると、これが誤り伝えられて笹竜胆は
清和源氏の子孫と称する者が競って家紋とする傾向が生まれました。
武将では石川数正が家紋として使用しています。
彼は清和源氏です。石川氏の家紋がいつ笹竜胆になったかは
わかりませんでしたが、どちらにしても源氏なのですね。
子孫が領した伊勢・亀山城跡にも笹竜胆の紋瓦を確認できました!!
メルマガ(2002/9月号より)
商品ページ 笹竜胆家紋はんこ |
| 織田木瓜 |
おだもっこう

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外郭が五つあり中に唐花が入っています。
木瓜紋は古く御簾の周囲にめぐらした布「帽額(もこう)」につけられた文様
が独立したもので、一般に木瓜(ぼけ)や胡瓜の切り口を方だったとされるのは
誤りだそうです。この紋様は中国の唐代には官服の紋様にされていました。
横に扁平な形(横木瓜)が基本ですが、外郭の数が増す(5〜8)につれ円形に
近づきます。保元の乱(1156年)当時の内大臣、徳大寺実能が車文と
していたことが大要抄」に記されていることから徳大寺氏の家紋とされたのが
最初といわれています。
メルマガ(2002/10月号より)
商品ページ:織田信長の部屋 |
五三桐
五七桐 |
ごさんのきり

ごしちのきり

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桐は鳳凰がとまる嘉木(美しい木・佳樹)といわれ、平安・鎌倉時代には
桐・竹・鳳凰1組の紋様が天皇のみに用いられ、後に桐だけが取り出され
公的な天皇の象徴となりました。古くは「蒙古襲来絵詞」の大矢野氏
(天草)の旗にも桐が確認できます。
桐紋を下賜された人物では足利尊氏、豊臣秀吉が特に有名です。
三好義興・松永久秀・上杉謙信らは将軍足利義輝から戦功の賞として
与えられ、織田信長・細川藤孝は足利義昭から与えられました。
秀吉が桐紋を賜ってから、桐は菊についで名誉ある紋となり
諸大名の間で大流行しました。のちに禁令まで出されましたが江戸幕末には
大名、旗本のうち、桐紋を使用する家は全体の5分の1にも及んだそうです。
秀吉が築造した姫路・大阪・伏見・名護屋の各城の瓦等にも
桐紋が使用されています。
五三桐の五三とは紋の花の数で分類されています。
中央に5つの花、左右それぞれに3つの花がついているのが五三桐です。
中央に7つの花、左右それぞれに5つの花がついているものは五七桐です。
珍しいものには「五四の桐」「九七の桐」「七五三の桐」もあるそうです。
桐は種類が非常に多く、花の数以外でも外形で区別し
「太閤桐」「上杉桐」「佐竹桐」「利休桐」など名前もさまざまです。
メルマガ(2002/11月号より)
豊臣秀吉の桐は織田信長から聴許されたのが五三の桐、関白になってから五七桐と
いわれています。
【島左近の五七桐について】
「寛政重修諸家譜」に島左近の家紋は「五七の桐、揚羽蝶、瓜」 とあるそうです。
ただし系図上には無理があるようです。(下賜された可能性も不明です。)
また「五七の桐」は図案が微妙に異なる多種にわたる家紋ですが、図柄につきましても
詳細不明です。
参考:書籍 「学研 歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 」
※(「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)
江戸幕府が諸大名以下幕臣御目見以上の諸氏の系図・略歴
を記した書。1799〜1812年にかけて編纂。1530巻。)
※関連商品をご検討いただく際には、ご了承の上、ご注文いただけますよう、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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商品ページ 五七桐家紋はんこ 蒔絵シール 豊臣秀吉の部屋
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六文銭
真田銭 |
ろくもんせん
さなだせん
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六道銭(ろくどうせん)ともいい、真田氏、滋野氏、海野氏の代表家紋となっています。
銭が2列×3列で合計6個の銭が描かれている紋です。
銭の紋は縁起の良さと形の単純さより用いられました。
特に六道銭は決死の覚悟を示したものと言われています。
死人を葬る際、棺に六文の銭を入れる・・・俗に三途の川の渡し賃だといわれることから、
これがあれば、死を恐れずに戦えるということだったようです。
広辞苑より
「六道」・・・衆生が善悪の業(ごう)によっておもむき住む6つの迷界。
すなわち、地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天。
六観音・六地蔵・六道銭・六道の辻はこれに由来する。
メルマガ(2002/12月号より)
商品ページ 六文銭家紋はんこ 蒔絵シール 真田氏のページ |
| 葵 |
あおい

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葵はアオイ科に属する多年生草本で、それを紋様としたもの。
二重葵は京都加茂神社の神紋で、神事に用いられたことから信仰的意義を
表しているそうです。
御三家ではそれぞれ本家とは微妙に違う葵の紋を使用していました。
●徳川葵 ●尾州三つ葵 ●紀州三つ葵 ●水戸三つ葵 と
葵の種類はたくさんあります。他にも●越前三つ葵●会津三つ葵などです。
本家(将軍家)とは同じ葵は遠慮されたためです。
さらに厳密にいいますと、本家の徳川家でも家康・秀忠・家光の時代以後
何回か葉脈の数が変化しています。家紋によって何代目将軍の時代だったかが
判明するヒントになるのでしょうか、その辺りは専門家にお任せ。
おおまかにいうと家康の時は葉が細かく、15代将軍慶喜のころには簡素化
されていたといった具合に"いろは"は感じます。
家康の家臣の本多忠勝が「立葵(たちあおい)」と
いう紋を使用していますが、本多家は家伝によると加茂社の神官であったと
いうことです。信濃善光寺の寺紋も「立葵」ですので、観光で行かれたら
是非、軒瓦の紋を見てみてください。
メルマガ(2003/1月号より)
商品ページ 葵家紋はんこ 蒔絵シール 徳川家康の部屋 |
| 雁金 |
かりがね
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雁の紋様より転用した紋で雁音とも書き、同じく「かりがね」と読みます。
土佐坊昌俊が源頼朝の治承の挙兵にのぞみ、2文字に雁の旗を賜り、これを
家紋にしたそうです。多くの大名・旗本に用いられ、柴田勝家や真田氏も
使用しています。(真田氏の使用は江戸期ぐらいから・・・)
柴田勝家→丸にニ雁金→雁が上下に2羽いる紋です。丸は江戸期に衣紋と
して常用するために付加されたものと考えられています。
また、上部の雁のみ開口していると伝わっていますが「見聞諸家紋」
等に見られる古式の雁金紋にはそういったものは見つかっていません。
真田氏→結び雁金(むすびかりがね)→雁の胴体が輪を描いている紋です。
"いろは"は一度、本物の雁を見てみたいなぁと思っています。
雁(かり)= 鴈(がん)
カモ目の大形の水鳥の総称。白鳥より小さく、カモより大きい。体形・生活
状態はカモ類に似るが普通雄雌同色。北半球北部で繁殖し、日本では冬鳥。
マガン・ヒシクイなどが多い。
メルマガ(2003/2月号より)
商品ページ 柴田勝家ミニのぼり旗 |
一文字に
三つ星 |
いちもじに
みつほし


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別名「長門三つ星(ながとみつほし)」。毛利家の家紋です。
三つの丸の上に一の文字。星紋に属します。
星紋は北辰信仰の対象:北極星は北の方角、時をはかる指針とされ
妙見信仰に結びつきました。
妙見菩薩→北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。国土を擁護し
災害を滅除し、人の福寿を増すという。特に眼病平癒を
祈る妙見法の本尊。主として日蓮宗で尊崇。
↓
眼病平癒というのも不思議ですが、病気のために眼球に
生じる小さな白い点を「ほし目」というからかも
しれません。
三星・・・オリオン座の三星は「将軍星」ともいわれ武人のあこがれの星でした。
中国では「三武」といい、中央を大将軍星、左右を左右将軍星と呼びました。
三武思想のほかに、「福」「禄」「寿」をあらわす思想もありました。(星宗)
一・・・一は「カツ」とも読み、「一番のり」にも通じました。
似たものに、「渡辺星」という家紋があります。
これは、三つ星の下に一文字がある「三つ星に一文字」です。
嵯峨源氏流:渡辺氏の家紋です。家紋製品を買うときは注意してください。 |
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商品ページ 一文字三星家紋はんこ 蒔絵シール 毛利元就他ミニのぼり旗
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| 梅鉢 |
うめばち

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梅の紋は花を写実的に象った「梅花紋」(絵画的)と5つの円を梅の花弁に
見立てた紋様の「梅鉢紋」(幾何学的)に分けられます。
菅原道真を祭った天神信仰とのかかわりも深く、大宰府天満宮や
北野神社などでもこの紋を目にすることができます。
紋様としては古く奈良・平安時代からすでに使用されていました。
戦国時代では、近江、美濃の豪族の使用が多く、美濃斉藤氏は
天満宮を深く信仰して、領内各所に天満宮を勧請し、梅鉢紋を用いました。
(斉藤氏自体の家紋は撫子(なでしこ)紋です。)
臣下のものも、領内の豪族もこぞって梅鉢を使用したといわれています。
のちに、斎藤氏(加賀出身)の庶流であった加賀の前田家、信州飯田の堀家
なども家紋として使用しました。
前田利家というと「加賀梅鉢」(剣梅鉢)が有名ですが、利家の時代には
「星梅鉢」という紋を使用していたとも言われています。
追記 : 梅が「文」の神(菅原)にたいし、剣は「武門の出」をあらわしたものだそうです。
加賀の支藩である、大聖寺藩や富山藩は細部を変更した独自の
「大聖寺梅鉢」「富山梅鉢」を創設しています。
一般的に「剣梅鉢」は剣の部分が非常に大きくなっていますが、
加賀梅鉢の剣の部分は小さいものです。
メルマガ(2003/4月号より)
商品ページ 梅鉢家紋はんこ 蒔絵シール 前田利家ミニのぼり旗 |
本多家
立葵 |
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本多忠勝は家伝によるともと加茂神社の神官であったと伝えられています。
信濃善光寺も立葵を寺紋としています。
商品ページ 本多立葵家紋はんこ 蒔絵シール 本多忠勝ミニのぼり旗 |
三つ鱗
北条鱗
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みつうろこ
ほうじょううろこ
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北条家の北条鱗紋は二等辺三角形。
正三角形の三ツ鱗は以前から北条氏族が使用していたことから、
早雲も改姓以前に使用したのではないかといわれています。
商品の家紋瓦はは丸に正三角形の三ツ鱗です。
家紋シールは北条鱗(丸なし)で製作しています。
商品ページ 北条鱗家紋はんこ 北条氏特集ページ
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| 五本骨に月丸 |

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日の丸といわれる場合もありますが、歴史的には月丸が正しいそうです。
扇は末広といい、発展する意味があることから文様として流行していた
ものが縁起がよいとして一般でも家紋として使われるようになりました。
扇といえば「佐竹氏」の「五本骨に月丸(五本骨に日の丸扇とも)」が
有名です。扇紋はこの佐竹氏が一番最初に使用したと伝えられています。
そのいわれは、源頼朝の奥州征伐に加わっていた常陸源氏の佐竹氏も
源氏のシンボルである白旗を使用しており、他の源氏嫡流と区別するために
頼朝本人より月を描いた扇を与えられ、旗につけるように命じられた
ことからだそうです。
似たものに、扇の骨だけの「扇骨(おうぎぼね)紋」、逆に紙だけの
「地紙(ぢがみ)紋」という種類もあります。
また、檜の薄片を並べて糸で綴った扇で、公家にもちいられる「檜扇
(ひおうぎ)紋」もあります。
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| 地紙紋 |
扇骨紋 |
「檜扇紋」は上野国箕輪城主長野氏も用いています。
また阿波の戦国大名十河氏は「公饗に檜扇」という紋を使用しています。
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| 檜扇紋 |
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| 沢潟 |
おもだか |
沢潟は、「勝ち草(かちぐさ)」といい、武士に好まれました。
豊臣秀次は馬標に、また、福島正則も沢潟紋の一種を家紋としていました。
主として尾張、三河出身の武将によく用いられたそうです。 |
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←「福島おもだか」
葉だけの沢潟は「葉沢潟」といいます。 |
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毛利氏が沢潟を使用した言い伝えが残っています。
毛利元就が敵を追っていたとき、川岸に生えていた沢潟にトンボがとまりました。
元就はにっこりして”おぉ勝ち草に勝ち虫(トンボ)がとまっているぞ。者ども進め”と
全軍をはげまして大勝を得たそうです。
古来「ヌルデを”勝ち木”、オモダカを”勝ち草”、トンボを”勝ち虫”」といって縁起が
いいとされました。
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| 片喰 |
かたばみ

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藤堂家、成瀬家、毛利福原家等
「見聞諸家紋」によると肥田氏、多賀氏、長宗我部氏等が
家紋に用いたそうです。他に藤堂氏や宇喜多直家も
鶴亀紋とともに使用していました。
「片喰」は「酢漿草」とも書きます。カタバミ科の植物でクローバーに
似た多年生草本です。紋章としては「太平記」に新田義貞の軍中に、
この紋を使用した者があったと記録されているところから南北朝時代の
頃から用いられるようになったようです。
商品ページ 片喰家紋はんこ |
| 五七桐 |
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桐紋を下賜された人物で、足利尊氏、豊臣秀吉は特に有名です。
また、三好義興、松永久秀、上杉謙信らは将軍足利義輝から
戦功の賞として与えられ、織田信長、細川藤孝は足利義昭から
与えられました。
秀吉が桐紋を賜ってから桐は菊についで名誉ある紋となり、
諸大名の間で大流行しました。秀吉の築造した
姫路、大阪、伏見、名護屋の各城の瓦等に桐紋がみられます。
商品ページ 五七桐家紋はんこ ミニのぼり旗 |
| 桔梗 |
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明智家、土岐家、山県家
土岐一族を称した光秀の桔梗紋はいわゆる土岐桔梗の形状で示される
ことが多いですが、時代的には通常の桔梗が正しいかハッキリしていません。
土岐桔梗
桔梗紋は美濃の土岐氏の家紋として有名です。色は水色。
黒い家紋が多い中、水色の家紋はとても珍しいものです。
「見聞諸家紋」によれば、清和源氏を称する土岐氏ははじめ源氏の白一色の旗にならって
水色一色を旗印としていましたが、桔梗の花を冑にはさんで戦った時、戦勝を得たところから
水色地に桔梗を染めて家紋にしたということです。
桔梗は昔、別名として「オカトトキ」(丘に咲くトキ)と言われていたことから
土岐氏の読みに同じだったためと花名を家紋にした説もあります。
江戸城を築いたことで知られる太田道灌(どうかん)も桔梗紋を使用。
こちらは花弁が細いのが特徴で"太田桔梗"といわれています。
細桔梗という更に細い花弁の家紋も使用していたようです。
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| 太田桔梗 |
丸に
細桔梗 |
加藤清正も桔梗紋です。もともと"蛇目"紋であったようですが、
肥後入国の際、讃岐の旧族尾藤氏の桔梗紋を襲用するようにとの秀吉の配慮説や、
京都の智積院を修築した記念に寺紋の桔梗を贈られた説があります。
桔梗は紫や白の美しい花を咲かせるキキョウ科の植物で秋の七草の
一つとして数えられます。
また桔梗の漢字の木辺をとりのぞくと「吉更・・・さらに吉」となり尊ばれた花だそうです。
商品ページ 桔梗家紋はんこ 明智光秀ミニのぼり旗
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| 杏葉 |
ぎょうよう

(↑画像は
抱き花杏葉
です。) |
大友宗麟の家紋として広く知られています。
杏葉は大陸伝来の装飾的な馬具(唐鞍・・・カラクラに使用された金銅製の
装飾)を図案化した紋で、杏(あんず)の葉に似ているところからこの名が
ついたといわれています。
大友氏の勢力により九州・鎮西地方では権威のある紋となりました。
大友氏から杏葉紋を与えられた一族の立花氏、戸次氏、田原氏などの
有力家臣は「同紋衆」と呼ばれて優遇されました。
龍造寺氏はもともと「剣花菱」の家紋を使用していましたが元亀元年、政家の父:山城守
隆信が肥前に侵入してきた宗麟の大軍を撃破、戦勝を記念して杏葉紋に改めました。
鍋島氏は、鍋島花杏葉を使用しています。
杏葉紋は茗荷(みょうが)紋と非常に似ていますが、葉脈の筋や先端に花房が
ないことである程度見分けることができます。
後に鍋島氏が幕府に提出した公式文書に鍋島家自らが「みょうが」と
間違えて書いてしまったエピソードも残っているほどです。
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橘
彦根橘 |
ひこねたちばな
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黒田職高が播磨の豪族小寺氏に仕えてこれを賜ったといわれています。
井伊家が用いるようになったのは井伊共保が誕生の折、
井戸の傍らに橘の実があったためとする説があります。
商品ページ 彦根橘家紋はんこ 蒔絵シール 井伊直政ミニのぼり旗 |
| 違い鷹の羽 |
ちがいたかのは

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鷹の羽を象ったもので、蒙古襲来絵詞では肥後の武士菊地氏が使用していた
ことから鎌倉時代から家紋として使用されていたようです。
菊地氏は阿蘇神社の氏子で阿蘇神社の神託により鷹の羽紋を賜わったと
いわれています。阿蘇神社の神紋も鷹の羽(並び鷹の羽)です。
有名なのは浅野氏の「違い鷹の羽」紋です。「赤穂浪士」で有名な
浅野長政支流の赤穂・浅野内匠頭の浅野氏ですが、本家は「浅野鷹羽」という
渦巻状のかわった違い鷹の羽紋を使用しています。
 |
浅野
鷹の羽 |
鷹は古来より武人の象徴とも言われ、武家の間で尊ばれ、それにあやかって
江戸時代には100家以上の大名・旗本家に使用されました。
大谷吉継は旗印にも使用していました。
商品ページ 違い鷹の羽家紋はんこ 蒔絵シール 大谷吉継ミニのぼり旗
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| 二引 |
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今川家、最上家、吉良家、畠山家、斯波家、里見家等。
引両紋は足利将軍家の代表家紋といえます。
また、室町時代の豪族名家の代表家紋ともなっています。
足利将軍家の代表紋でもある引両紋は、横、竪に線を引いたシンプルな紋です。
大将の所在を示した陣幕には多色の布を横に縫い合わせたものが使用されて
いましたが、のちにそれを円形に切り取りだした物を引両と呼びました。
陣幕は反物を横に五枚つないでつくられており、二引両は1、3、5段目布を白、
2、4段目を黒にした陣幕がもとになったといわれています。
「二引両」は足利将軍家の他に一門である今川氏・吉良氏・畠山氏などが使用。
功のあった武将たちにも二つ引両紋が下賜されました。
三浦氏の幕は黄・紫・紅の三色に染め分けられており、そこから「三つ引両」紋
に転じたといわれています。
引両の「両」は古来より「龍」で、中国の周易からでていると考えられています。
横に一線を描いて龍にみたてたようです。
新田義貞の「一つ引両」は「大中黒」とも呼ばれ有名です。
陣幕の上下を白、2、3、4段目を黒にした陣幕が基になり「大中黒」になったそうです。
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| 新田一つ引 |
新田氏の一門であった里見氏、山名氏も「一つ引両」を使用して
いましたが、新田義貞が足利尊氏に敗れ、足利氏に従属した時に「二つ引両」に
変更されたそうです。
奥州の伊達家は今では竹に雀の「仙台笹」が有名ですが、本来は源頼朝から
賜わったと伝えられている「竪三つ引両」だそうです。
商品ページ ニ引き両家紋はんこ
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| 細川星 |
ほそかわぼし

九曜
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星紋は星辰信仰の対象、北斗七星は北の方角、
時をはかる指針とされ、妙見信仰に結びつきました。
延享4年(1747)8月15日。月例の拝賀式に諸大名は江戸城につめかけました。
その日細川越中守宗孝も登城しましたが、大広間の厠で何者かに斬りつけられ
翌日死亡。巴九曜紋と見間違えた板倉修理勝該(かつよし)が犯人で、
自分の廃嫡を計った本家の佐渡守勝清と人違いした為でした。
以後細川家は「寄り九曜」から「はなれ九曜」に紋を改めたそうです。
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| 九曜巴 |
九曜は古代インドで「卜占」に用いられた九つの星(日・月・火・水・木・金・土・
羅?(らご)・計都(けつ)をいい、千手観音・勢至・虚空蔵・弥勒・薬師・阿弥陀・
聖観音(しょうかんのん)・不動明王・釈迦の九体の仏・菩薩に当て、わが国でも
平安時代の末期からその信仰が広まったそうです。
商品ページ 九曜家紋はんこ 細川忠興ミニのぼり旗
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| 九曜巴 |
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巴の霊異と妙見信仰をかさねたもので、巴は八幡神のシンボル、
妙見星は戦神の守護神。
商品ページ 長尾為景ミニのぼり旗 |
| 卍 |
まんじ
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蜂須賀家、多田家等。
卍はもとは古代バビロニア、アッシリアなど世界各地で
太陽の象徴神聖な印として用いられました。
それが仏教を通じて渡来し、吉祥の相として寺院の紋章に使用され家紋となりました。
卍は仏陀の胸や足の裏に現れる瑞相で、梵語でスバスティカ(svastika)と呼び、
吉祥万徳の集まるところをいい、幸運福徳の象徴とされています。
仏教のみならず、古代国家バビロン・アッシリア・ギリシャやメキシコ・ペルーでも
神聖なものの象徴とされているそうです。
漢字の「万」は中国で卍を変更して作った文字。
(追記 : 卍は「寿」と「聖」をあらわし、巴は「変化」と「転回」をあらわすそうです)
商品ページ 蜂須賀ミニのぼり旗
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| 抱き茗荷 |
だきみょうが
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戦国期以後、天台宗の摩多羅神の神紋として用いられています。
この紋を初めて用いたのは、二宮氏といわれています。 |
| 四つ目 |
よつめ

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目結紋は宇多源氏、近江源氏の代表家紋。
菱形状に斜めになった四ツ目紋を「隅立四ツ目」と言います。
(家紋シール四つ目は斜めに貼ると、隅立四ツ目となります。)
尼子家、京極家
朽木家、横田家
染め紋様が図案化されて家紋になりました。
しぼり染めで、布をしばった部分だけが目のように白く染め残る文様です。
(正倉院御物中にも見られる古くは纐纈(こうけち)と呼ばれた染色技法、
いわゆる鹿の子絞りの文様を図案化したもの。)
近江源氏の流れをくむ佐々木氏もこの紋を使用していました。
現在も目結い紋を使用されている家は佐々木氏の流れがあると考えていいそうです。
戦国時代では佐々木氏の流れをくむ、京極氏、尼子氏などが平四つ目結です。
隅立四つ目結は佐々氏や少弐氏が使用しました。
中の抜けている部分の四角が大きいものは「七つ割り四つ目結」ともいいます。
目結紋はバリエーションも豊富です。九つ目結や十六目結というのもあります。
商品ページ 尼子勝久ミニのぼり旗
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三つ盛亀甲
花菱 |
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亀が万年の長寿を保つところから瑞祥的意義にもとづいて
平安時代から広く流行しています。
浅井氏の家紋は亀甲の中に剣花菱が入っています。 |
| 揚羽蝶 |
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池田家、関家、神戸家等。
桓武平氏の代表的な家紋。その流れをくむ
伊勢氏、関氏も戦国時代にこれを家紋とするようになりました。
また、織田氏も平氏の出で蝶紋を用い、岡山・鳥取の池田氏は信長から
贈られた幟に三連蝶紋があったことから、これを家紋に用いました。
商品ページ 揚羽蝶家紋はんこ |
| 武田菱 |
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菱紋は甲斐源氏の代表家紋です。
連続する織紋様を取り出し、単純明瞭な形が好まれたもの。斜方形が水草
の菱の葉ににているところから菱紋と名づけられました。武田菱と呼ばれる
ものは俗に割菱と呼ばれる形ですが、通常の割菱より線が細くなっています。
武田菱は武田の「田」を表したものとも言われています。
義光流の武田・小笠原氏のゆかりの者の使用も多く、板垣氏は地黒菱、
秋山氏は松川菱を使用していたそうです。また東北の南部氏も武田一族で、
文治5年(1189年)源頼朝に従って出陣し、武功あって奥州五郡を得、一族には
割り菱を使用する支流が今も残っているそうです。
商品ページ 武田菱家紋はんこ 武田信玄の部屋 武田24将軍特集ページ |
| 花菱 |
はなびし
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花菱も武田家の家紋としてしられてい
ます。菱を優しく表現した花菱紋は功を挙げた部下に与えることもありました。 |
| 上杉笹 |
うえすぎざさ
 |
上杉笹が属する竹・笹紋は混同して呼ばれており厳密な区別はないそうです。
松竹梅や、桐・竹・鳳凰(ほうおう)の一組の組合せから竹を取り出したもので
瑞祥的意義に基づいて用いられるようになりました。
上杉笹は「竹に二羽飛び雀」とも言います。上杉氏の祖は公家の勧修寺流で
勧修寺一門の代表紋が「竹に雀」であったことから上杉氏も「竹に雀」を
用いました。勧修寺一門の紋は雀が三羽います。
また、「見聞諸家紋」には意匠の異なる上杉氏の家紋が残されています。
 |
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上杉笹
(丸に二羽飛び雀) |
見聞諸家紋の
上杉氏家紋 |
雀は竹に紙を招く為の神使(依り代)と考えられていました。
商品ページ 上杉笹家紋はんこ 上杉謙信の部屋 |
| 巴 |
ともえ
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小早川隆景は左右両方の巴紋を使用している場合があり、混同しています。
巴は武具(弓手に着して弦から心臓を守る防具)の鞆(とも)に似ていること
から鞆絵(ともえ)となり、のちに水が渦巻いているのに似通っているため
「巴」の字があてられたそうです。
水に通じていることから防火のまじないとされ、屋根瓦の文様にも使用されるようになりました。
また、巴紋が弓矢の神である八幡宮の神紋とみなされるようになり全国各地の八幡宮で
使用され、神力をうけようとした多くの武家もこれを家紋として使用しました。
戦国時代では長尾家や小早川家が巴紋を使用しています。
時代は源平の頃にさかのぼりますが、木曽義仲の愛妾「巴御前」は
この巴紋を愛用していたそうです。
巴紋は右に尾が流れる「右巴」、左に尾が流れる「左巴」と渦巻きの
向きが紋によって違います。
(追記:注)書籍等によっては逆の表現をしているものもあります。
安土桃山通販では2009/1/10まで逆表記しておりました。
修正して、お詫び申し上げます。
また、尾が長い巴紋を「尾長巴」や「長尾巴」などといいます。
(追記 : 卍は「寿」と「聖」をあらわし、巴は「変化」と「転回」をあらわすそうです)
商品ページ 巴家紋はんこ 商品ページ 小早川隆景ミニのぼり旗 |
| 三階菱 |
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武田氏から分かれた小笠原氏は
宗家をはばかり菱紋を3つ重ねた三階菱と意匠を変更したと考えられていま
す。 |
| 丸に十字 |

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島津家の家紋は、「筆文字の十」から「丸に筆文字の十」と変遷してきました。
関ヶ原後、キリスト教徒の関係を取り沙汰されることを避けるため轡化したという説もあります。
島津氏の他に大久保・加藤・内藤・森氏などの
大名や旗本が20家ほど使用していたそうです。
十文字は、古代から世界共通の呪符(災厄を避ける呪力があるとして身につける
もの。護符)で、これが中国から渡来し災厄を打ち払うものとして家紋として
選ばれました。最古のものは鎌倉時代の島津忠久の甲冑紋に見られます。
衣服などに用いるようになると、おさまりのよいように幾何学的に単純化され
丸に直線的な十字に変化したと思われますが、これが轡紋と見分けがつきません。
轡紋は馬の口に含ませ、手綱をつけるための金具の形を図案化したもので
原型を考えると意味合いは全く別物の家紋ですが、見た目は同じで困ってしまいます。
キリスト禁教時に十字架を思わせる十字の紋がキリスト信徒の疑いをまねくのを
恐れ、便宜上「轡」の語を用いたという説もあります。
逆に明らかにキリスト信徒としての信仰心を表す久留守(くるす)紋というのも
あります。大阪冬・夏の陣ではキリシタン大名や将兵が、キリスト教回復
のため籠城に加わり、軍旗や馬標にこの紋を用いました。
(島原の乱では天草四郎の軍旗がクルス紋でした。)
商品ページ 丸に十字家紋はんこ 蒔絵シール 島津義弘ミニのぼり旗
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| 源氏車 |
げんじぐるま

↑画像は
榊原源氏車 |
源氏車は平安時代、貴族の乗り物であった牛車の車輪が図案化され
模様や紋章となったものです。車軸の数では六本骨源氏車、
八本骨源氏車、十二本骨源氏車などがあります。
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| 八本骨源氏車 |
十二本骨源氏車 |
源氏車は車紋の一種ですが、源氏出身の人が使用しているとは限りません。
佐藤氏(藤原氏系)の代表紋となっており、伊勢神宮の宮方を務め、
大神宮奉献の任務を記念して、その車の輪を家紋にしたそうです。
伊勢の榊原に住んだこの佐藤氏から榊原氏が発祥しました。
徳川家康四天王の一人、榊原康政の家紋は榊原源氏車という独占紋です。
車輪の側面の筋彫りが六角形になっているのが特徴です。
一方、車輪を半分に切った形である「波切り車」という紋もあり、
これは下半分が水の中にあることを表現しているそうです。
尾張の生駒氏が使用しています。
商品ページ 榊原康政ミニのぼり旗
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| 八咫烏 |
やたがらす
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烏紋は一般的に鈴木氏の代表紋です。その中でも八咫烏は紀伊雑賀城主:
鈴木佐大夫や孫市の紋としても知られています。三本足烏ともいわれます。
(雑賀衆は鉄砲集団として知られています。織田信長を苦しめ、頭に領主を
いただかない中世的な自治体制をそなえた集団でした。)
八咫烏は中国古代の説話で太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の
日本での名称です。日本の記紀伝承では東征中の神武天皇が、熊野から
大和に入る際に賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が八咫烏に化身して
先導したと伝わっています。
八咫烏は熊野大権現の使者ともいわれます。
八咫烏の「咫(あた)」は昔の長さの単位で、手のひらの下端から中指の
先端ぐらいまでの長さだそうです。
商品ページ 三つ足烏家紋はんこ |
| 立波 |
たつなみ
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ニ頭波(左図)は、斉藤道三が自ら考案したといわれる家紋です。
立ち波紋の一種で独自性があり他の波紋群と少し違い洗練された感じがします。
立波(道三波)は道三の旧姓の松波(波を待つ(松))に掛けているともいわれています。
一般的な立波

波紋は波浪を模様としたもので、波の進退する様子(寄せ返しが自在)が
用兵の術にかなっていることから尚武の意味があり、武士の家紋へ転じたそうです。
また古代から海上に起こる竜巻が水の神:竜神と考えられたことからも
波紋には竜神をシンボル化した威力をもつとも言われています。
商品ページ 立波家紋はんこ 斉藤道三ミニのぼり旗 |
| 蛇の目 |
じゃのめ
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加藤清正の兜にもついている有名な蛇の目紋。一見だたの輪なの
ですが、「和」や「円」に通じ円満の意味がある瑞祥的意義から
家紋になったそうです。呪符の一種という説もあります。
この形はもともと弓の弦を収めておく弦巻で、蛇の目という
呼び名が印象的だったためか、二重の輪というとなんでも
蛇の目と呼ぶようになったそうです。
「蛇の目」は輪紋の一種で輪の太さにより、蛇の目の他に厚輪、
太輪、細輪、糸輪などの種類があり毛輪まであります。
商品ページ 加藤清正ミニのぼり旗 |
| 祇園守 |
ぎおんまもり

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小西行長の家紋で「中結祇園守」という紋があります。
「祇園守」紋自体は八坂神社の護符である筒守をクロスさせたもので、
祇園崇拝にもとづく紋章だそうなのですが、禁教令でクルス紋を
使用できなくなった大名などが、この筒守がクロスした祇園守を
密かに十字架にみたてて使用していたそうです。
(小西行長もキリシタンです。)
他には、祇園社の森を図案化したものであるとか、
牛の頭を図案化したものであるとか、異説も多い紋です。 |
| 桜 |
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桜の季節なので今月は「桜」の紋をご紹介。でも武家ではあまり
使用されない紋だそうです。かろうじでわかったのは、
戦国武将では細川忠興です。(細川家は「九曜」紋の方が印象に
強いですが桜も使用していたのですね)
細川家の使用する「細川桜」も「九曜」も細川忠興からの
使用と伝わっています。
桜紋は桜の花を図案化した紋です。平安時代から衣服や道具の文様
として広く用いられ、やがて家紋にも用いられるようになりました。
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| 日足 |
ひあし
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日足紋は日紋とも日丸紋ともいいます。太陽を形象化したもので太陽崇拝によります。
天照大神は日の神、天皇は日の御子として、「古事記」や「日本書紀」などにも皇室が
深く太陽を尊んだことが記されており、菊花紋とともに皇室の紋章や錦旗にも
用いられたそうです。
戦国時代では龍造寺氏が日足紋を使用していました。
龍造寺氏の先祖がはじめて鎮西におもむいたときに見た光芒を
旗印にしたところ、開運をもたらした為家紋にしたと伝わっています。
(その後龍造寺氏は「杏葉」紋に家紋を変更)
日足紋は、光芒の数により、十六日足、十二日足、八日足などと表現します。
(龍造寺氏はどれも使用していたようです。)
商品ページ 龍造寺隆信ミニのぼり旗
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| 蒲生対い鶴 |
がもうむかいつる
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蒲生氏の家紋は「鶴の丸」ともいわれていいますが、当時は左右非対称の
この「対い鶴」だったようです。一般的な「対い鶴」は羽をひろげ、2羽で丸を
作ったような図柄ですが、この「蒲生対い鶴」は2羽の立ち姿が優雅です。
鶴を紋とした由来は、1441年の嘉吉合戦に参加した蒲生秀綱という人が、
敗走中に道に迷った時、鶴が蒲生氏の旗をくわえて飛び立ち、その鶴を追っていたら
窮地を脱出することができたことからだそうです。以後鶴を家紋としたそうです。
余談ですが、蒲生氏郷の幼名は「鶴千代」です。
鶴紋は鶴の姿勢によっても分類されます。
・飛んでいる様子を示したもの→「昇り鶴」「降り鶴」「松喰鶴」
・起立した姿勢を示したもの→「立ち鶴」
写実的な「立ち鶴の対い鶴」から現在の完成された一般的な「対い鶴」
に発展していったものと考えられています。
商品ページ 蒲生氏郷ミニのぼり旗 |
| 赤鳥 |
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赤鳥は櫛の汚れをとる婦人の化粧道具「垢取り」の当て字で、馬櫛紋とは別分類に
なるそうです。
建武4年(1337)今川国範(今川氏祖)が足利尊氏の軍に従い、南朝方の立てこもる赤坂城を
攻囲した際、富士浅間神社の神託によって「垢取り」を笠験(かさじるし)にしたことに
はじまるといわれています。
商品ページ 今川義元ミニのぼり旗 |
| 百足 |
むかで |
百足は北方守護神多聞天(毘沙門天)の使いといわれています。
日本には百種以上の百足がおり、人に有害な百足もいますが、
足が多いことからでしょうか「客足がつく」「おあしが入る」などと
縁起のよい動物ともされています。
商品ページ 百足衆ミニのぼり旗 |
| 七曜 |
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七曜は北斗七星を象徴したもので、「北斗星紋」ともいわれます。
古来北斗七星を天空の中心を占める星として尊敬し、妙見菩薩と神格化して
国土安全、息災招福を祈請する信仰がありました。
商品ページ 九鬼氏ミニのぼり旗2 |
| 兒 |
こ
兒
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(兒文字「備前軍記」)
岡山市の南方十数キロは昔は一面の海で、その先に児島と称する小島が
浮いていました。高梁川、倉敷川、笹ヶ瀬川などの沖積作用で半島になり、
その内側に出来た内海は児島湾と呼ばれました。古来ここに栄えた豪族は
吉備氏で、屯倉(三宅)を管掌して三宅とも称されましたが、児島の地名をつけて
「三宅児島」ともいい、戦国の末に宇喜多秀家が開拓を進めました。
「兒」の字は「児」の旧漢字で、宇喜多氏が「三宅児島」を称していたことに由来します。
「浮田」姓を「宇喜多」に改めたのは瑞祥のため。
宇喜多氏は「兒」の字紋のほかに、剣片喰(かたばみ)も使用していたといわれています。
※児島・・・新羅の王子三人が備前国に漂着したとき、旗に 「兒」の字が描かれていた
ため、その地を「児島」と名づけたという伝承もあるそうです。
商品ページ 宇喜多秀家ミニのぼり旗 蒔絵シール
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| 鎌 |
かま
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鎌紋は農業神のシンボルです。但馬の国では晩秋になると鎌をよく磨いて三方に乗せ、
供物をそなえて祝う「鎌祝い」があるそうです。信濃の諏訪神もはじめはいくさの神でしたが
のちに農業の神に転じ、「諏訪旧跡志祭神」には、「鎌を神幣としたり、ご神体ともなる」と
出ているそうです。
商品ページ 蒔絵シール |
| 永楽銭 |
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1457年ごろに明から大量に輸入された永楽銭が国内の通貨になりました。
戦国時代の一般的な貨幣は永楽銭といってもよいかもしれません。
撰銭令(※)からは明から輸入した貨幣は永楽銭の他に洪武銭(こうぶせん)、
宣徳銭(せんとくせん)もあるかことがわかります。国内では悪銭しか
鋳造できず、銅銭は輸入にたよっていました。
・※撰銭令(えりぜにれい)・・・中世の銭は私鋳銭や割れたり欠けたりした
悪銭が多く、取引を拒否するなどのトラブルが多発したため
幕府が指定した悪銭の使用を禁止し、良銭に一定比率で
良銭に準ずる悪銭をまぜて流通させることを命じたもの。
銅がだめなら「甲州金」などのように金は?と疑問になりますが、
武田信玄の時代に貨幣としてどれだけ金が流通していたかは不明だそうです。
おもに賞賜用に用いられたと考えられています。金は重さで価格が決まる
秤量貨幣だったため、日常の取引には不便だったかもしれません。
武田勝頼の頃(1577頃)には甲州金山は衰退期に入ってしまいます。
余談ですが、武田家滅亡後に武田金山衆の多くは徳川氏に仕え、
その技術は佐渡などの金山開発に大いに生かされたそうです。
(メルマガ2004年11月号より)
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追記(2009/03)
豊臣秀吉は「天正大判」をはじめ各種の金銀貨を鋳造し軍資金としたそうです。
江戸時代の初期には金座、銀座で「慶長小判」や銭座では「寛永通宝」などが鋳造され
幕府は金銀銅の三貨を全国通用の正貨としました。
商品ページ 永楽文銭ミニのぼり旗 永楽文銭家紋はんこ
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「柏紋」
柏(かしわ)紋は十大紋に数えられる多くの家が使用している紋の
ひとつです。
(※十大紋・・・藤、木瓜、片喰、鷹の羽、桐、蔦、柏、茗荷、橘、沢潟)
戦国時代では奥州の葛西氏が「三つ柏」を使用していました。
源頼朝から奥州五郡を賜った入国の際に盃に三枚の柏の葉が映った
ことから家紋に定めたのだそうです。
柏はブナ科の落葉樹。葉肉が厚いので古くは食物を盛るお皿とされ、
神事にも食器として使用されてから神聖視されました。
このことから神官などに多く用いられたようです。
山内氏(山内一豊)も「土佐柏」という紋を使用していますが、
熱田神社の千秋氏との関係から柏紋を用いだしたという説があるそうです。
(今でも5月5日のお節句のお供え物とされる柏餅も
食器のなごりなのでしょうね・・・ ^^;)
柏の各紋の図柄を下記URLに用意しました。
★徳川家康の家臣・牧野康成の「牧野柏」も一緒に掲載
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| 菊水 |
きくすい
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菊水(半菊に水)は菊と水の流れを合成した紋で、楠木正成の紋としても有名です。
由来は、楠木正成がその功績により後醍醐天皇から菊の紋を下賜されたとき、
そのまま使うのは恐れ多いとして半分を水に流した・・・、
という伝説の他に、菊花をうかべた盃を賜り旗印にしたともいわれています。
また中国の延命の瑞祥的な伝説によるものがあります。
中国河南省にある白河の支流:鞠水(きくすい)の上流には菊の
大群落があって、花の露が川に落ちて流れます。
その水は甘く、それを飲む水辺の住人はすべて長命だったといいます。
はじめ楠木氏の菊水は菊花三輪を水の流れに配した写実的なもので、
のちに花輪をへらして図案化されたそうです。
商品ページ 楠正成・菊水軍旗
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| 折敷 |
おしき |
折敷は四方に折りまわした縁をつけた、角盆または隅切盆。
食器や神饌(しんせん※)をのせるのに用いました。
※神饌・・・神に供える飲食物。稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜・塩・水など。
※蔬菜(そさい)・・・野菜、青物のこと。
特に大三島神社の「三」を折敷のに載せて図案化した「折敷に三文字」紋が
有名です。大三島神社は伊予の越智氏の氏神であることから河野氏などの一門で
広く用いられました。河野氏の流れをくむといわれている稲葉一鉄(良通)も
「折敷に三文字」を使用しています。中の「三」の文字の書体が時代や流派に
よって多種にわたっています。(稲葉氏宗家は筆文字だそうです)
折敷は角紋の一種である「隅切り角」紋と区別がつかないですね。
角紋は輪紋などと同様に他の紋章の輪郭として合わせ用いられる紋です。
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| 隅立て折敷 |
傍折敷 |
折敷に
三文字 |
折敷に
角三文字 |
折敷に
波三文字 |
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| 隅切り角 |
隅立て角 |
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| 梶 |
かじ |
梶はクワ科の植物で布や紙の原料ともなりました。
梶の皮は祭神の時、幣帛(にきて)としても使われ、神聖な植物と
考えられていたようです。
※幣帛(にきて。ニキデ、ニギテとも読みます)・・・
神に供える麻布のことで、後には絹または、紙を用いました。
平安時代末ごろには、諏訪明神の神紋とされていました(吾妻鏡)。
その後、紋として信濃・甲斐地方に普及し、諏訪氏や松浦(まつら)氏
などが家紋として用いています。
梶の葉の紋は葉が五出が基本ですが、七出のものもあり、これは松浦氏が
用いたことから「平戸梶の葉」とも呼ばれています。
梶の葉だけではなく、枝や幹、花なども家紋になっています。
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| 矢 |
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矢紋は矢を象った紋で、武家の紋とされてきました。
文献「羽継原合戦記」には「鏑矢は、武蔵国の住人太田源次郎、
矢筈車は服部、高畠は違鏑矢」と矢紋についてふれられているそうです。
※鏑矢(かぶらや)・・・矢合わせの時などに用いる、音のなる矢。
空中を飛ぶ時に鏑の孔に風が入って響きを発します。
※矢筈(やはず)・・・矢の上端の、弓の弦を受ける部分のこと。
箆(の)(棒状の部分)の先端を直接その形に
削る場合と、竹、角、木などで作ってさす形状の
のものがあります。
家紋では種類が多く名称が一定していない場合もありますが、
おおむね矢羽の部分を矢紋とし、他に矢尻紋、矢筈紋と分けて分類
されているようです。
余談ですが、実際の矢羽には鷲と鷹の羽が珍重され、烏、鳶の羽は忌まれ、
梟は人を調伏する意で用いられたそうです。他に雉、鶴、雁、鴾(とき)、鷺なども
用いられ、白い羽を好みの色に染めることも行なわれたそうです。
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| 一つ矢 |
折れ矢 |
並び矢 |
三つ矢 |
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| 違い鏑矢 |
一つ矢尻 |
矢筈 |
矢筈車 |
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随時追加中です。 |
参考文献

●「日本の紋章」渡辺三男著・毎日新聞社●「家紋百話(上・下)」丹羽基ニ著・河出書房新社●「武家の家紋と旗印」高橋賢一著
●「日本の家紋6000」新人物往来社●「家紋の話」泡坂妻夫著・新潮選書●「家紋散策」家紋を楽しむ会 編
●「歴史と旅”武将の家紋と旗印”」昭和60年12月号●「日本人の心がみえる家紋」楠戸義昭著・毎日新聞社
●「歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118」学研●「すぐわかる日本の歴史」小和田哲男著 |