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よみ 解       説

北条家
虎朱印

ほうじょうけ
とらしゅいん
「虎朱印」とは・・・

 「祿壽應穩(ろくじゅおうおん)」の4文字を刻む方形の上部に
虎の図案を配した印判で、この虎の印判が押された文書を虎印判状と
いいます。

後北条氏二代氏綱は文書の形式を整備し、北条氏が徴収する年貢・公事
についてはすべてこの虎の印判を押した文書によって命ずることを
定めました。もしこの虎の印判を押した文書がなく、郡代・代官の判物
のみによって徴収が命じられた場合はそれに応じる必要のないこと、
そうした行為を行う者を訴えてもよいということまでを規定。
郡代・代官が不正をできない体制を整えました。
(いいお殿様ですね。)

戦国大名の中ではじめて印判状という様式を用いたのは氏綱の従兄弟
にあたる今川氏親でしたが、その印は氏親個人の印判で、嫡男には
継承されませんでした。これに対し、虎の印判は氏綱から5代氏直まで
使用され北条家の家印としての役割を担うものでした。

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後北条氏の各個人の印判は、氏綱(二代)「郡」、幻庵「静意」、氏康(三代)「武栄」と「機」、
氏政「有效」、氏照「如意成就」、氏堯「福寿」と「桐圭」、氏繁「顛趾利出否」等を用いていたと
いわれてります。(一部印文が不明なものを含み、旧漢字を常用漢字に直したものも含みます)
戦国武将ミニのぼり旗デザイン参考一覧
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No 武将名 図柄参考/備考
F1 徳川家康 白地に三葉葵 長久手合戦図屏風(成瀬家本)
F2 本多忠勝 白地胴黒に本の字 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F3 福島正則 黒地に山道 関が原合戦図屏風(津軽家本)
F4 黒田長政 紺地に藤巴 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F5 藤堂高虎 白地に赤餅 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F6 井伊直政 総赤 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F7 細川忠興 白地に黒の九曜 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F8 加藤嘉明 白地に筆文字の十 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F9 池田輝政 白黒段々 関ヶ原400年祭チラシ
F10 浅野幸長 白地に黒の三引 関が原合戦図屏風(徳川美術館蔵)
F11 石田三成 大一大吉大万 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F12 島左近 裾黒斜め分に神号
と柏紋、二引
関が原合戦図屏風(井伊家本)
F13 宇喜多秀家 紺地に兒の字 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F14 大谷吉継 紺地に白餅 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F15 島津義弘 白地裾黒斜め
分けに丸に十字
関が原合戦図屏風(井伊家本)
F16 小早川秀秋 白地に黒の違い鎌 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F17 小西行長 白地に青の山道 関が原合戦図屏風(木俣家本)
F18 脇坂安治 赤地に白の輪違い 関ヶ原400年祭チラシ
F19 毛利秀元 赤地白餅 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F20 長宗我部盛親 黄地白餅 関が原合戦図屏風(徳川美術館蔵)
F21 織田信長 織田木瓜 安土桃山通販オリジナル
F22 織田信長 黄地に永楽銭 信長記・推定
F23 豊臣秀吉 五七の桐 安土桃山通販オリジナル
F24 武田信玄 武田菱 川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館蔵)
F25 上杉謙信 竹に飛雀 安土桃山通販オリジナル
F26 製造中止 - -
F27 毛利元就 一文字三星 安土桃山通販オリジナル
F28 北条氏康 北条鱗 安土桃山通販オリジナル
F29 真田昌幸 六文銭 安土桃山通販オリジナル
F30 前田利家 梅鉢 安土桃山通販オリジナル
F31 徳川家康 厭離穢土 大阪両陣関東諸将軍器詳図
「厭離穢土欣求浄土」。浄土宗の開祖・法然の教え。「この世は穢土、
無常遷滅の国、すべからくこの土を捨て、極楽浄土たる西方弥陀の
世界を欣求すべし」
F32 武田信玄 風林火山 雲峰寺蔵
「孫子の旗」。「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」は孫子の軍争編第七
にある言葉です。
F33 織田信長 織田木瓜(黄) 安土桃山通販オリジナル
F34 武田信玄 武田菱(赤) 安土桃山通販オリジナル
F35 毛利輝元 一文字三星(朱) 山口県立山口博物館蔵
F36 真田幸村 六文銭(赤) 安土桃山通販オリジナル
F37 武田信玄 武田菱(赤地金 雲峰寺蔵
F38 真田幸村 六文銭(赤地金) 安土桃山通販オリジナル
F39 豊臣秀吉 五七の桐(紺地金) 安土桃山通販オリジナル
F40 榊原康政 源氏車 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F41 豊臣秀吉 総金 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F42 武田信繁 武田菱(紺地金) 安土桃山通販オリジナル
F43 真田信之 胴赤 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F44 明智光秀 水色桔梗 常山紀談
F45 明智光秀 白地に
水色桔梗
安土桃山通販オリジナル
F46 柴田勝家 雁金 長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F47 佐々成政 角立四目 安土桃山通販オリジナル
F48 斉藤道三 立波 安土桃山通販オリジナル
F49 龍造寺隆信 日足 安土桃山通販オリジナル
F50 大友宗麟 杏葉 耳川合戦図屏風(萬野美術館蔵)
F51 尼子勝久 平四目結 安土桃山通販オリジナル
F52 蜂須賀家政 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F53 長宗我部元親 七つ片喰 安土桃山通販オリジナル
F54 山県昌景 黒字に白桔梗 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F55 武田信玄 諏訪明神 雲峰寺蔵
南無諏訪南宮法性上下大明神」。この旗は武田信玄が25歳の時、
信濃の豪族・志賀城主笠原清繁を討つ直前に、諏訪明神に金3百枚を
供えて戦勝祈願をしました。その際神殿の両脇に立てられていたもので、
神官長に頼んでもらい受け、陣頭に掲げて大勝を得たことから
以来、信玄の本陣に軍記として立てられるようになったといわれています

↓諏訪神へ
F56 加藤清正 南無妙方蓮華経 加藤清正画像(常在寺蔵)
F57 小早川隆景 三つ巴 陰徳太平記・推定
F58 大谷吉継 違い鷹の羽 安土桃山通販オリジナル
F59 直江兼続 赤地に三つ山 甲越信戦録・推定
F60 佐竹義宣 五本骨扇に月丸 佐竹史料館蔵・参考
F61 浅井長政 三盛亀甲剣花菱 安土桃山通販オリジナル
F62 長尾為景 巴九曜 安土桃山通販オリジナル
F63 徳川家康 三連葵 大阪両陣関東諸将軍器詳図
F64 井伊直政 賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F65 南部信直(限定) 二引両と南部鶴 盛岡市中央公民館蔵
F66 佐久間盛政 賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F67 佐久間安政 賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F68 蒲生氏郷 安土桃山通販オリジナル
F69 前田利家 三連梅鉢 賤ヶ岳合戦図屏風(岐阜市歴史博物館蔵)
F70 山内一豊 土佐柏(1) 関が原合戦図屏風(徳川美術館蔵)
F71 山内一豊 土佐柏(2) 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F72 後藤基次 総白 難波戦記
F73 伊達政宗 紺地に金の丸 仙台市博物館蔵
F74 真田信綱 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F75 加藤清正 蛇の目 安土桃山通販オリジナル
F76 吉川元春 三引両 陰徳太平記
F77 蜂須賀至鎮 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F78 石田三成 黒地に三つ赤餅 関が原合戦図屏風(津軽家本)
F79 真田昌輝 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F80 武田勝頼 長篠合戦図屏風(成瀬家蔵)
F81 滝川一益 長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵
F82 松平忠吉 が原合戦図屏風(井伊家本)
F83 京極高知 目結 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F84 九鬼守孝 七曜 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F85 北条氏政 钁湯無冷所 北条五代記(字体安土桃山通販オリジナル)
F86 丹羽長秀 松皮菱に笹 賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F87 寺沢広高 黒餅 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
F88 織田長益 関が原合戦図屏風(井伊家本)
F89 前田利大 大ふへん者(白) 常山紀談
(字体、配色
安土桃山通販オリジナル)
F90 前田利大 大ふへん者(黒)
F100 上杉謙信 刀八毘沙門 上杉神社蔵
「毘」の旗。謙信が信仰していた毘沙門天の一字をとった旗です。
F101 上杉謙信 懸り乱れ龍 上杉神社蔵
F102 今川義元 赤鳥 灘太平記・推定
F103 武田勝頼 黒地に大 見聞雑録
F104 武田勝頼 白地に大 見聞雑録
F105 武田信玄 百足 武器袖鏡初編 (配色安土桃山通販オリジナル)
F106 徳川家康 大阪両陣関東諸将軍器詳図
(配色安土桃山通販オリジナル)
F107 森長可 鶴の丸 小牧長久手合戦図屏風(成瀬家蔵)
F108 井伊直政 井の字 賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
F109 北条氏直 無の字 北条五代記(字体安土桃山通販オリジナル)
F110 北条綱成 地黄八幡 北条五代記(字体安土桃山通販オリジナル)
F111 上杉景勝 「田」辺に「比」 諸将旌旗図屏風(芹沢美術館蔵)
(字体安土桃山通販オリジナル)
F112
※ながれ旗
F201 北条早雲 北条鱗 北条早雲画像(法泉寺蔵)
F202 上杉謙信 紺地に朱の丸 会津陣物語
「天賜の御旗」「日の御旗」とも称されます。父:長尾為景が朝廷から
下賜されたもので戦場にのぞんでは安養院の僧がこの旗を守護したと
いわれています
※合戦図屏風や肖像画を参考にしたものが多くなっております。
主に江戸時代になってから描かれたものが多く、合戦の現場を見て描かれたものでは
ないため、屏風絵等の中の旗が実在したかは不明です。
※その他参考書籍
  ・学研 「図説・戦国武将118」、「図説戦国合戦図屏風」
  ・秋田書店 「歴史と旅 特集武将の家紋と旗印」
  ・雄山閣 「日本合戦図典」
  ・新人物往来社 「別冊歴史読本・戦国合戦図屏風」、「旗指物」、「別冊歴史読本・戦国武将列伝」

  ・世界文化社 「武田信玄 その軍団と戦い」
旗指物の種類や形式はこちらへ
 ←※チチ(乳)
   旗につけ、竿や紐を通す為の布
   犬の乳首が行儀よく一列にならんでいる
   ことからこの名がついたといわれています。
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八幡大菩薩


   
八幡神(八幡大菩薩)
別称:誉田別尊(ほんだわけのみこと)
    大鞆和気命(おおともわけのみこと)
    品陀和気命(ほんだわけのみこと)
神格:武神、文教の祖神
一般的に八幡神は応神天皇であるとされています。
応神天皇と八幡神の結びつきを示す古い縁起として、平安後期成立の歴史書
「扶桑略記(ふそうりゃっき)」に、欽明天皇の御代に八幡神が「われは十五代
応神天皇であり・・・」と名乗ってあらわれた話があるそうです。

八幡神を祀る総本社:宇佐八幡宮は「天地天祗を従えて、銅の湯を水とし、
わが身を草木土に交えて大仏を鋳造しよう」という託宣により、東大寺大仏鋳造
を助け、いち早く仏教と結びつき朝廷の崇敬をうけるようになりました。
神仏習合の神としては、一番最初に「菩薩」の号を奉じられたそうです。

「★神仏習合」
日本にはもともと固有の八百万の神々が存在していましたが、仏教が伝来して
政治と結びつき国教的な性格を持つようになると、在来の神々は仏教の世界観
に取り入られ、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想に変化してゆきました。

「★本地垂迹」
仏、菩薩が衆生済度の為、仮の姿をとってあわられること。本地垂迹説では、
日本の神々は仏、菩薩の仮の姿であるとしています。
  (済度・・・仏、菩薩が苦界にある衆生を救い出して、涅槃にわたらせること。
        法を説いて、人々を迷いから解放し、悟りをひらかせること)
  (例)
  ・八幡神の本地(本来の姿)は阿弥陀如来
  ・天照大神の本地は大日如来

源氏の氏神

 源義家が7歳の時、岩清水八幡宮(京都)で元服し、「八幡太郎義家」と名のりました。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鶴岡八幡宮を建立。八幡大菩薩を源氏一門の
守護神として厚く祀ります。これにならい、御家人をはじめ、全国の武士にも崇敬される
ようになりました。

鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)では、八幡神がその神威によって、季節外れの嵐を
起こして敵の軍船を沈め、国を救ったといわれています。

※岩清水八幡宮は平安京が造られた時に都の鎮護のため南の要衝に
勧請された八幡宮です

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諏訪神 諏訪神(建御名方神:たけみなかたのかみ)
別称:武南方神
神格:軍神、狩猟の神(山の神)、農耕の神(風の神)

神話では父の大国主神が高天原の最高指令神の天照大神から「地上の国の統治権を禅譲
しなさいと」と迫られたとき、これに最後まで抵抗したのが、建御名方神でした。建御名方神は
天神の使者タケミカヅチ神(武神:鹿島神)に統治権を賭けて相撲をいどんなものの、敗れて
しまい、出雲を追われ、信濃国に逃れて諏訪湖のほとりに隠棲したとなっています。

諏訪地方に伝わる「諏訪大明神絵詞」には建御名方神がこの地に来て、先住の地主神や
諏訪湖の龍神(水の神)などの神々を征服して鎮座したとなっています。

神功皇后の新羅遠征の時の活動や、坂上田村麻呂の東征の守護、又元寇の時には
龍神としてあらわれて神威を発揮するなど、軍神としての伝承があります。


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出世兜 しゅっせかぶと 「出世兜」の由来に就いて

「元弘元年(西暦1331年)正成38歳、9月3日後醍醐天皇勅旨をもって河内国赤坂の豪士
楠橘朝臣正成を召し給う。即日正成笠置の行在所に参内敵軍を平定し大御心を安んじ
奉る事を誓う。天皇、聖軍必勝を祝い悦び給い兜及び菊水の紋章を下賜」と史実に記載
されています。この兜は古来「出世の兜」として有名です。

商品名である「出世兜」は、
明治23年住友家から献納された二重橋広場の楠公の銅像について製作にあたった各氏が
協議し、楠木正成が一代の中最も華々しかった後醍醐天皇を兵庫に向かえ奉まるった元弘3年
6月4日に正成が前駆して京都に帰り給うた時使用されたという「出世の兜」を復元したものや、
更に、楠木氏関連の古文書等を参考に高岡鋳物で製作。
後世の武将のイメージをあしらった前立てに変化をつけることでシリーズ化されています。


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花押の種類
   花押とは、花の様に美しく書いた署名のことです。中世の判は印章ではなく
書判
(かきはん)=花押を使用していました。現代でも大臣副署の際に花押は使用されています。
草名体 ・・・ 草名(そうな)は真名(まな・楷書)に対する語で草書のこと。縦長の草名体で書かれたものは
公家用といわれ、平安・室町期の公家が用いました。
横へ張り出す形は武家用

(織田信長花押例→)
二合体 ・・・ 平安末期から鎌倉時代にかけて漢字二字の一部を組み合わせて花押が生れました。
一字体 ・・・ 名乗りの一字を図案化したもの。(一字体は中世を通して武家に愛用されました)
別用体 ・・・ 名乗りと無関係の別の形を用いたもの。文字や事物の図案化
伊達政宗は鳥を図案化→
豊臣秀吉の花押「悉」は
一字体と別様体の
中間的存在になる
そうです→
織田信長の花押の中でも
最も有名な右の花押は→
「麒麟」の文字ではないか
と推測されています。

明朝体 ・・・ 江戸時代、明の影響のもとにうまれたタイプで、徳川家康以下、歴代の将軍家はこれを
用いたため、「徳川様」とも呼ばれています。

徳川家康の花押→

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・・・ (ぼう)
はた。毛でつくったはたかざりのこと。毛深い牛のしっぽを用いた。
「旄牛(ぼうぎゅう)」はヤクの別称。
 ↓この商品の販売は終了いたしました。
武将の肖像シリーズより
詩吟「川中島」
鞭声粛々夜河を過る
 (べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)
暁に見る千兵の大牙を擁するを 
 (あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを)
遺恨なり十年一剣を磨き
 (いこんなりじゅうねんいっけんをみがき)
流星光底長蛇を逸す 
 (りゅうせい こうていちょうだをいっす)
「川中島」(作者:頼山陽)は天文23年の川中島の戦いで、宿敵・武田信玄を
倒すことができなかった上杉謙信の無念の心境をうたったものです。
兵を潜めて静に夜河を渡り、暁霧に乗じて敵陣に近づき馬を駆って
敵の本陣に突入し一気に信玄に迫り剣で斬りつけますが、遂に信玄を倒すことはできませんでした。
武将の肖像シリーズより
詩吟「九月十三日」
霜は軍営に満ちて秋気清し
 (しもはぐんえいにみちてしゅうききよし)
数行の過雁月三更
 (すうこうのかがんつきさんこう)
越山併せ得たり能州の景
 (えつざんあわせえたりのうしゅうのけい)
遮莫れ家郷の遠征を憶ふを
 (さもあらばあれかきょうのえんせいをおもふを)
「九月十三日夜」は天正2年上杉謙信が45歳の時能登を征し、遊佐弾正を七尾城に
囲む九月十三日の月が明るい夜、幕僚と酒宴で、この詩をつくりました。

露は陣営に満ちて秋の気は清く澄み渡り幾列かの雁が鳴いて飛んでゆく
大空を仰げば月は中天に冴えて夜の12時頃であろう、遠く見渡せば越後の
山々や能登の景色も併せて眺められる。
何と気持ちのよいことか、男児の快心の極みなれば故郷の家族共が遠く遠征にでた我を
気遣っておるであろうが、そんなことはどうでもよい。この好景を見捨てて帰ることは出来ないと。
随時追加中です。
※参考書籍
学研 「図説・戦国武将118」、「図説戦国合戦図屏風」
秋田書店 「歴史と旅 特集武将の家紋と旗印」
雄山閣 「日本合戦図典」
新人物往来社 「別冊歴史読本・戦国合戦図屏風」、「旗指物」、
           「別冊歴史読本・戦国武将列伝」

世界文化社 「武田信玄 その軍団と戦い」
PHP文庫「戦国時代なるほど辞典」
新紀元社「八百万の神々」(戸部民夫著

山川出版社「探訪ハンドブック」
「日本の紋章」渡辺三男著・毎日新聞社
「家紋百話(上・下)」丹羽基ニ著・河出書房新社
「武家の家紋と旗印」高橋賢一著
「日本の家紋6000」新人物往来社
「家紋の話」泡坂妻夫著・新潮選書
「家紋散策」家紋を楽しむ会 編
「日本人の心がみえる家紋」楠戸義昭著・毎日新聞社
「信長軍団なるほど人物事典」歴史街道編集部編
広辞苑、漢字源、明鏡国語辞典
    

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